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そして、始まる  作者: 大平麻由理
番外編
87/91

ソナチネの夏 その1 

第8話フローラルなアイドルの、広海視点の物語になります。

 音楽教師の鶴本広海は、頬杖をつき、窓の外の景色をぼんやりと見ていた。

 抜けるような青い空がどこまでも続いている。

 夏の日差しは燦燦(さんさん)と降り注ぎ、グラウンドの向こうに広がる遠くの町並みも、まるで外国の風景のように目映(まばゆ)く光輝き、日常の喧騒を忘却の彼方へと追いやる。

 夏の太陽はどこか神秘的だ。 


 調子よく流れていたピアノの音色がふと途切れる。


「す、すみません。もう一度、弾かせて下さい。今度こそ、間違えずに弾きますから」

「ん……」


 広海は言葉少なに頷き、眩しそうに細めた目をほんの一瞬だけ生徒に向け、またすぐに窓の外に視線を戻した。

 その眼差しがどれほど罪深いものなのか、広海本人は全く気付いていないのだ。

 生徒が指先を震わせながらも、精一杯演奏に取り組んでいるのが伝わってくる。機械的にリズムが刻まれているように聞こえなくもないが、暗譜が完了した時点で曲想をつけても遅くは無い。

 クーラウ作曲のソナチネ作品二十の二をここまでしっかりと弾ける生徒が、この補習講座を受けていることを疑問に思いながらも、広海は生徒の演奏に耳を傾け続けた。


 俺がこの曲を初めて弾いたのはいつだったのだろう……。広海は遠い昔の夏の日を思い出していた。

 まだ小学生で声変わりもしていなかったあの頃。友達にピアノを習っているのを知られたくなくて、ほとんど家で練習しなかった。

 消音システムが備わっていない旧型のピアノだったため、練習するとしても家中の窓もカーテンも閉めまわして、絶対に家族以外のだれにも聞こえないようにして弾いていた。

 なのに、ピアノ教室に通うことだけは辞めなかった。ピアノが好きだったのだ。

 午後から激しい雷雨に見舞われ、探検ごっこができなくなり、家にこもっていた日があった。

 そうだ、これだけ雷の音が大きければ外にピアノの音が洩れても誰にも聞こえないだろうと思い、いそいそとピアノの蓋を開け、ぽろんぽろんと弾き始める。

 次第にのめりこみ、雷雨が収まり太陽が雲間から覗き始めたのも気付かず、ただひたすら弾き続けていた。


「……広ちゃん、広ちゃん。お友達が遊びに来てるよ」


 母がピアノの横でそう言った。仕事が休みで家にいた母が、何回も呼んだのに聞こえなかった? と怪訝そうな顔をしてそこに立っていた。

 もうーーっ、今ピアノを弾いているのに、じゃまするなよ! と言った時には、後の祭り。母の背後にはいつもの探検ごっこの仲間が口をぽかんと開けて突っ立っていた。

 彼らはその時初めて広海がピアノを弾くのを知った。けれど彼らは、広海を冷やかしたり笑ったりしなかった。ただただ、ぐわっと目を見開いて、驚いていたのだ。そして次の瞬間に訪れたのは、拍手喝采の嵐。


「すっげーー!」「めっちゃ、うま」「おまえ、ピアニストか?」「かっけーー!」


 彼らはひたすら広海の隠し技を賞賛した。

 その日から広海の人生は変わった。ピアノを人前でも堂々と弾くようになり、小学校を卒業する頃には、コンクールで入賞するまでになっていた。

 その時に雷鳴に紛れて無心になって弾いていたのが、今生徒が奏でているソナチネだ。


「なあ、香山(かやま)。おまえ、それだけ弾けりゃ、もう明日から来なくてもいいぞ。他の受験科目の勉強した方がいいんじゃないのか?」


 広海は三年生の香山に思ったままを伝えた。音大の受験でもあるまいし、これだけ弾ければ、もう何も言うことはない。

 というか、この夏の講習は、教育系の学部を受験する生徒の中でも、ピアノに不慣れな者を対象に開講しているものだったはずだ。

 誰が見ても聴いても、香山はその条件から逸脱しているのは明らかだった。


「あ、あの。そんなことないです。あたし、ピアノのレッスン辞めてから、随分たつんです。それに、指もあんまし動かないし。他の教科は夜にちゃんと勉強してますから……」


 香山はきれいに切りそろえた長い髪を背中に垂らし、人形のように黒目がちな目を真っ直ぐに広海に向けて言った。


「指は十分動いているように見えるが……。まあ、しいて言うならば、もっと感情を出してもいいんじゃないかな。歌い上げる部分はもっと強調してもいい。が、しかしだ。確か中学生の時に、ツェルニーも三十番までやったと言ってたな?」

「あ、はい」

「なら、今日で終了だ。受験の演奏自由曲は、このソナチネを弾けばいい。この弾きっぷりなら試験官の評価もいいはずだ。不安なら受験の前日にもう一度ここに来たらいい」


 広海はかつて吹奏楽部に所属していた香山を、最上級の言葉で褒めたつもりだった。なのに、香山は浮かない顔をして、一向にピアノの椅子から立とうとしない。何が気に入らないというのだろう。


「香山、どうした? 今日は、もういいぞ」

「先生……」


 香山が膝の上においている手に視線を落としながら、力なくつぶやいた。


「あの、あたし。この曲、自分に合わない気がするんです。もう一曲、練習してるソナチネがあるんですけど。明日、それを聴いてもらってもいいですか?」


 広海が眉をピクッと上げ、香山を伺い見た。


「せ、先生、あの……。どう弾いたらいいのか、わからないところがあるんです」


 香山はいかにも自信なさげに、もじもじしながら言った。


「そうか。別にかまわないが。でも香山なら、ここに持って来なくても、自分で弾けるだろ? 家も遠いんだし、暑い中、わざわざ学校に来なくても……」

「だめなんですか? あたしはもう、ここに来ちゃだめなんですか?」


 すっと顔を上げた香山が、突如豹変した。今までに聞いた事がないような大きな声を張り上げ、広海に詰め寄るのだ。


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