80.ヒーロー その2
「ふぎゃーーー! いててて。おい、やめろ! やめろってば!」
手や足を引っ張られ八つ裂き寸前のところで、人ごみをかき分けるようにクロールしながらこっちにやって来た平野に救い出され、やっとのこと撮影場所であるスクリーンの前にたどりつく。
やっぱり慣れないことはやるもんじゃない。すでに疲労感がピークに達してしまった凛香は、これから始まる撮影会のことを考えるだけで全身がくたくたになった。
「みんな、静かにーーっ! じゃあ今からタイムサービスです。二年三組のヒーロー凛香ちゃんとの、あこがれのツーショットタイムを開始したいと思います。勧誘係の人、プラカード持って校内を巡回してください。会場係の人は廊下で並んでるお客さんの整理と誘導をお願いします。カメラ係、プリント係はミスの無いように、器材の最終チェックをお願いします。では、それぞれの持ち場にスタンバイしてください。以上、解散っ!」
解散の合図と同時に、おおーっ! とみんなのこぶしが上がり、それぞれのポジションに散っていく。凛香は、スクリーンの前にポツンとひとり残され、撮影が始まるのを待った。
そしてついにスタートした撮影会。これが、想像を絶するほどのシロモノだったことは言うまでもない。腕を組めだの、肩を抱けだの。あげく、お姫様だっこまで強要される始末だ。
言っておくが、凛香はあくまでも男性の格好をしているだけで、筋力は女性のままなのだ。そんな凛香が女子生徒を抱き上げたあかつきには、あまりの重さに腕が抜けそうになり、今でも二の腕がぷるぷる震えている。
そういえば、凛香にも似た経験がある。昨夜もそうだったが、広海に抱き上げられてベッドに運ばれたのだ。彼の首に腕を回し、身体の重みをすべて彼にゆだねて抱きかかえられる幸せを満喫していた凛香だったが、それがこんなに大変なことだったとは……。
広海も腕の筋肉がぷるぷるしていたのだろうか。これからは、自分の足で歩いてベッドまで行こうと決心した。何事も体験してみないとわからないものだ。
そんな過酷な撮影の合間にも、ありがたい憩いのひと時が与えられた。それは、ごく少数だが行列に混ざっている男子生徒の存在だ。
頭をかきながら照れる彼らは、普通に横に並んで撮影する以外、別段何も求めてこなかった。純情ないい奴ばかりで、束の間、凛香の心は癒された。
さまざまなポーズを取り続け、腰の痛みがピークに達した頃、救いの神である平野の声が教室に高らかに響く。
「午前のタイムサービスはこれで終了します。次は午後の一時からです。皆様、二年三組、チェンジフォトへご来場いただき、まことにありがとうございました! これより、通常どおりの撮影になります。レオタードに、戦隊タイツ。セーラー服に紋付はかま。何でもとりそろえておりますので、変身のひと時をお楽しみください!」
助かった。これでやっと一息つける。凛香はチェンジフォトで変装を楽しむ客を横目に、上着を脱ぎ、教室の隅に置かれた椅子に座って休んでいると、委員長の内田が気を利かせてお茶を運んできてくれた。少しぬるめのお茶が、心地よく胃を満たす。
すると内田が、嬉しそうな、それでいてすがるように訴えかける視線を、凛香に投げかけてくるのだ。
「内田、どうした。何か困ったことでもあるのか?」
「い、いえ。そうじゃないんですが。……先生。廊下見てください」
凛香が見た光景は……。
そこには、まるで新しい店のオープニングを待つ時のような長蛇の列が出来ていた。午後のタイムサービスを待っている、行列だと言うではないか。
凛香は内田と平野を前にして言った。もう休憩はいいから、今すぐにでも二度目のタイムサービスとやらを始めた方がいいのではないかと。その時の二人のほっとした顔といったらなかった。
あれからいったい、何度作り笑いをさせられたのだろう。顔の筋肉がぴくぴくと引き攣り、そのまま形状記憶してしまいそうな勢いだ。
お姫様だっこは勘弁してもらう代わり、それ以外の希望は出来るだけ叶えてあげるようにした。もうどうにでもなれと、捨て身の心境だ。
あと三十分で二時になる。そろそろここを抜けて、体育館に行かなければならないのだが、廊下を見ると列が短くなるどころかどんどん延びているように見える。
最後尾は……。まだ教室三つ分ほど向こうらしい。
各クラスや部活の模擬店は、投票によって人気度のランク付けが行なわれる。さっき平野が仕入れてきた情報によると、二年三組が一位獲得間違いなしだという。
衣装の脱衣を手伝い、行列の整理をし、撮影、印刷と休みなく生徒達が動き回る。彼らの一生懸命な姿を見ると、少々の腰の痛みなどどうでもよくなった。
時間が許す限り撮影に協力しようと、客の女子生徒の要望どおり、彼女の横で跪いたところ、廊下が俄かに騒がしくなってきたのだ。カメラを握る生徒も撮影を中断して外を覗く。
そして凛香の前に現れたのは。
生徒にがんじがらめにされ、連行されてきた……。音楽教師の広海だった。