8.フローラルなアイドル
凛香は透明フィルムの包みの中に三分の一ほど残っている高菜のおにぎりを、いっきに口に押し込んだ。
のんびりはしていられない。隣の音楽準備室からは、さっきから止むことなく、ソナチネのメロディーが流れてくる。
ピアノの経験はあるが、高学年になって辞めたと言っていた生徒だろうか。
つっかかりながらも次第に曲が仕上がっていくところが憎いではないか。
あれはきっと生徒本人の努力の賜物に違いない。
広海の指導力がそうさせたなどとは絶対に思いたくない。あんなやつに負けてたまるか……。
凛香はおにぎりの無くなった包みをコンビニのビニール袋の中にねじ込み、両手をパンパンとはたいて気合を入れ直す。
次の生徒は幼児教育科に進学予定の女子生徒だ。
実技試験項目に初見視唱というのがあり、初めて渡された八小節の曲を、楽譜を見ただけで瞬時に歌うというテストを課されるのだ。
広海が過去の入試で出題された曲を分析して、受験対策用にわざわざ作曲したという大層な名目の楽譜をコピーし忘れていたのに気付き、あわてて職員室に向う。
そういうやつなのだ。資料の準備すら人任せなのだから……。
いったい何様のつもりなのだろう。
鷺野先生、これが本日の資料です。あなたの分と生徒の分をきちんと準備していますのでどうぞお使い下さい……くらい、普通一般常識のある教師なら、言うだろう。
凛香は隣の準備室のドアを蹴りそうになるのをどうにか抑えて、苦々しい面持ちで廊下に出た。
なんという暑さだろう。もわっとした空気が一瞬で凛香の周りを取り囲む。
職員室に行くには、途中で渡り廊下を通り別の建物の一階まで下りなければならない。
今の今までさらっとしていたシャツの下の首周りに、汗が噴出す。ありえない暑さに目まいを覚えながらも、階段を足早に駆け下りる。
生徒に廊下階段は走るなと指導している都合上、これはあくまでも足早であって、決して走ってなどいないと言い訳まがいに自分自身に言い聞かせながら、何食わぬ顔で職員室に向かった。
「あっ、鷺野せんせ〜!」
東高のアイドル教師、里見瑛子だ。職員室のすぐそばで、凛香の横をすれ違った彼女が甘ったるい声で叫んだ。
「里見先生? 何か?」
凛香は呼び止められた理由がさっぱりわからず、怪訝そうに瑛子を睨む。
「鷺野先生ったら、そんな怖い顔なさらないで下さいよ。いやだ。ただご挨拶しただけなのに」
「そう……。じゃあ」
なんと紛らわしいやつなんだろう。凛香はただただあきれて、言い返す気力もない。
職員室のドアに手を掛け、ここからさっさと立ち去ることだけを考えて顔を背けた。
「鷺野せんせーー。本日の補習講座、お疲れ様です。では失礼しまーす」
そう言って花柄のワンピースを翻し、手を振る。
なんだ? 今のは。それにしてもうっとおしいことこの上ない。とっとと消えろと言いたいところを、凛香はぐっと堪えた。
それにお疲れ様とか、勘違いも甚だしい。仕事はまだこれからだというのに。
「いや、本日の補習講座はまだ終わったわけじゃなくて。コピーが済んだら、また音楽室にもどり……」
っておい! 待てよ、里見瑛子め!
瑛子は凛香の話を最後まで聞くことなく、スキップでもしそうな勢いで、ぐんぐん廊下の向こうに遠ざかっていくではないか。
凛香は白い長袖のシャツを肘まで捲り上げた手を額にかざし、やってられないというように首を横に振る。
廊下には、瑛子が残して行ったフローラルなトワレの香りがほんのり漂っていた。
まあ、この程度なら許せるか……と、次第に遠のく瑛子の後姿をぼんやりと見送っていた。
コピーを終え音楽室にもどろうと廊下を突っ切ったところでハタと立ち止まった。
凛香の視線の先にはジュースの自動販売機がこれ見よがしに待ち構えていた。
ブーンという機械音を低く唸らせながら、暑さにうだる凛香をおいでおいでと呼び込むのだ。
ちょうど喉も渇いているし、何か飲み物を買って行こうと、見本の缶ジュースやペットボトル入りの飲料の品定めを始めた。
いつもなら迷わずウーロン茶のボタンを押すのだが、さっきからあのいやな人物の顔がちらついて仕方のない凛香の人差し指は、押す位置を定められないまま、空を彷徨っていた。
すべての補習が終わるまで、隣の準備室にいる広海と顔を合わすことはないのだが、自分だけ飲み物を買って行くことに、なぜか引け目を感じていたのだ。
突然、何かを取りに来たと言って、凛香のところに立ち入って来る可能性だってある。
いつこっちにやってくるとも限らないのだ。その時に自分だけ冷たい飲み物を飲んでいるのを知られたなら……。
広海のことだ。皮肉のひとつも残していくだろう。
これ以上あいつの勝ちポイントを加算するのだけは何があっても阻止したい。
凛香は迷いに迷った。かと言って、仏心を出した日には、相手はますますつけあがるに決まっている。
でもこうなったら仕方がない。コーラの五百ミリリットル入りサービス缶を選び、ボタンを押した。
ガン、ゴロゴロと派手な音を立てて、缶が転がり落ちてくる。
広海は無二のコーラ好きだ。学生時代の冷蔵庫は他の食材はなくても、コーラだけは切らせたことがなかったっけ……などと思い出し、慌てて記憶の倉庫から余計な過去のデータを追い払う。
凛香もジュースを選ぶならコーラと決めている。
あいつのことは一切関係ないのだと、思い浮かべたことを全て打ち消すように頭をぶんぶん振った。
このサイズなら、準備室に常備してある湯飲み茶碗に少しだけ分けて入れてやればいい。
あの茶碗の内容量はかなり少なめだったが、二杯も入れてやれば十分だろう。
凛香はそんな自分の不毛な親切心にどこか納得しないまま、よく冷えた缶を片手に、さっき下りてきたばかりの道筋を逆方向に辿って音楽室を目指した。
ひんやりと心地よい冷気がこぼれ出る音楽室の重厚なドアを開け、ピアノの上にコピーしたての資料を置く。
どうやら、隣のピアノの音も今は聞こえない。休憩タイムに入ったのだろう。
凛香は音楽室とドアひとつで繋がっている隣の準備室をワンノックすると、早くコーラを飲みたい一心で、広海の返事を待たずしてパンと戸を開け放ち、いつものように口走ってしまったのだ。
「広海。コーラ、買って来たぞ。感謝しろよ……えっ? はっ? な、何?」
そこには、さっき吸い込んだばかりのフローラルな香りがあたり一面に漂い、クルンとカールしたマスカラたっぷりの目元を見開いて手にウーロン茶のペットボトルを持った瑛子が、広海の前に立っていたのだ。
「さ、さ、さ、鷺野先生! ど、どうして……? なんで、まだ、そんなところにいるんですか? もう、補習講座は終わったんじゃ……」
瑛子は色を失くした唇をわなわなと震わせ、敵意を露わにした眼差しを凛香に向けた。