76.始まりの予感 その2
ふと時計に目をやった凛香に一抹の不安がよぎる。教頭がまだ来ないのだ。もう約束の時刻を過ぎているというのに、どうしたのだろう。急用でも入ったのだろうか。
一通りプログラムを通したところで、ようやく小休止を取る。幸せそうにコーラを口に含む広海には悪いが、さっきの疑問をぶちまけるチャンスの到来だ。
「広海……。さっき、里見瑛子が言ってた「あの話」って、何?」
広海も凛香との付き合いでいろいろ学んだのだろう。予測不可能な突然の質問にも、むせることなく器用にコーラを飲み干し、彼女の顔をじっと見た。
「あの話……か。まあその結果は、もうすぐ出ると思う」
「はあ? どういうこと? 広海のその秘密主義はどうにかならないの? あんたのその態度のせいで、昔、私達は仲違いをしたんだよ。いい加減、学習しろよ!」
「秘密主義か……。でもな、この時期に俺が里見さんの話を持ち出したとして、おまえは穏やかでいられるのか?」
「べ、別にかまわないし。それよか、聞かれたらまずい何かがあるのかって、逆に広海を信じられなくなる」
そんな言い合いのさなかでも、携帯ばかり気にしている広海にますます不信感がつのる。ここはスタジオの中だ。電波は大丈夫なのだろうか。
「ちょっと待ってろ」
そう言って携帯を見ながらスタジオの外に出た広海が、今度はすぐに笑顔で戻ってくる。
「よし。俺の狙い通りになった。もうすぐ教頭と一緒に、キーボードとベースの担当者が来る」
広海は素早く携帯を上着のポケットに入れ、椅子から立ち上がった。そしてあろうことか、凛香を抱き寄せると、いきなりキスをするのだ。
「な、なんだよ、広海、ここは……」
凛香の動揺などものともせず、より一層強く引き寄せられ、深く舌をからめ取られる。
「ん……っ」
そして彼女から離れた時、広海がさも満足げに言った。凛香、里見さん、もう立ち直ったみたいだ、と。
「里見先生が?」
「ああ、そうだ。おまえの言うとおり、紅茶とケーキ二個で、瞬く間にいつもどおりに戻ったって」
「な、何? どういうこと?」
不意打ちのキスだけでも動揺しているのに、その上、何が言いたいのだろう。里見瑛子がどうしたって?
凛香は憮然としながら、広海の不可解な言動にますます納得がいかない。
「ほら! 噂をすればなんとやらだ。先生方、今日は無理を言ってすみません」
広海が満面の笑みで、凛香の肩越しに誰かを出迎える。
同時に密室の中に新たな空気が流れ込むのを感じ、開いたドアの方を振り返った。教頭を先頭にその後に続いて入ってきたのは……。
美術科の佐々木と、さっきのバトルの相手、里見瑛子、だった。
「鶴本先生、本当に俺でいいのかな? ギターの経験があるったって、フォークギターなんだよ。それも基本コードしか弾けないし。ベースなんて、全くやったことないんだから」
入ってくるなり広海に泣きついたのは、日頃凛香が世話になっている美術科の佐々木だった。
何で、佐々木先生、あなたがいるんですか? 凛香の謎は深まるばかりだ。
「充分ですよ、佐々木先生。ベースの方がずっと簡単ですから。少しでもコードがわかれば、大丈夫です」
「そうですか? なんか、不安だな。うーんと、コードなら、CとGとEm、AmとDm、そして押さえにくいけどFくらいならなんとか」
「佐々木先生、すごいじゃないですか。基本的にベースは単音しか弾かないので、コード中の一音で、リズムを刻んでもらうことになります。教頭先生が詳しいので……。では、教頭先生、よろしくお願いします」
広海はスタジオの隅に立てかけてあるベースギターを佐々木に渡しながら、教頭に頭を下げるのも忘れない。
もちろん教頭の背にはエレキとおぼしきギターが担がれている。あれが噂のマイギターなのだろう。
「里見先生、先程は失礼しました。今回のバンド演奏、引き受けてくれて嬉しいよ」
広海がキーボードのところに瑛子を導く。さすがにまだ広海と目を合わそうとはしないが、ペコリと小さく頭を下げて、凛香の方をチラッと見た。
「鷺野先生。あの、誤解の無いように言っておきますけど。あたし、そこまで粘着体質じゃないですから。今、ここに来たのも、佐々木先生があたしを餌で釣った……じゃなくて、ご馳走してくれたからです。決して鶴本先生のことに執着してるわけではないですから。佐々木先生にケーキをご馳走になって、引くに引けなくなった。それだけのことです」
瑛子は口を尖らせ、プイと顔を背ける。
凛香は、ようやく合点がいった。広海がちゃんと瑛子をフォローしていたのだ。すでに佐々木に瑛子を頼むと、根回ししていたのだろう。
瑛子がキーボードを弾けるだろうことは凛香も知っていたが、まだほとぼりも醒めないバトル直後の今、のこのことスタジオまでやってくるとは、なかなか見上げた根性だと尊敬の念すら抱いてしまう。
ケーキだけでそこまで立ち直れる瑛子って、いったい……。
それと、凛香が驚いた事実がもう一つあった。佐々木と広海がそこまで打ち解けているなどとは全く気付かなかったのだ。灯台、下暗しとは、まさしくこういうことを言うのだろう。
一見、適当な寄せ集めの五人だが、一時間も練習すると、音がいい具合に重なり始める。それぞれの秘められた能力の高さに脱帽せずにはいられない。
教頭のリードギターは、中でも絶品だった。これはウケる。広海も心得たもので、ちゃっかり教頭のソロ部分を増設することをあらかじめ想定していたようだ。
もう間違いない。これで文化祭の成功は証明されたようなものだと、この時凛香は確信した。