75.始まりの予感 その1
どれくらいそうしていたのだろう。ようやく肩の震えが止まり、呼吸も整い始めた広海がおもむろにカップを手に取って、残っていたコーヒーを一気に飲み干し、よしっ! と気合にも似た声を発して勢いよく立ち上がった。
ところが、広海の顔色はさえないままだった。唇に至っては全く色を失くしており、肩にかけてあった上着に袖を通すことすらままならない様子だった。
凛香は上着に手を添え、広海の動きに合わせて着やすいようにフォローする。
「凛香、ありがとう」
「いや、別に……」
まるで長年連れ添った夫婦のような振る舞いに、どことなく気恥ずかしさを覚える。広海が落ち込んでいる今こそ優しい言葉をかけてあげるべきだとわかっていても、素直になれない自分がいた。
広海が瑛子をもてあそんだわけでも、二股をかけたわけでもない。ただ勝手に彼女が騒ぎ立てただけ、というのも理解している。
けれど、凛香とてひとりの女性だ。自分の思い人が他の女性の言動に苦しんでいる姿など、見たくなかった。さっきの対峙以来、どこかもやもやする感情が凛香を取り巻いているのも事実だった。
それが広海なんだからしょうがない。そんな広海だからこそ、好きになったのだ。がっくりと肩を落としてしょげてしまった広海も、凛香の好きな広海そのものなのだ。
「広海、そんなに心配するな。私はさっきの広海が誇らしかったよ。……惚れ直した、かも」
「り、凛香……」
やっと広海の強張った顔が緩み始める。
「でもまあ、女の勘として、思うんだけど。彼女は今晩一晩泣いたら立ち直ると思うよ。いや、今から甘いデザートでも口にしたら、もうケロッとしてるんじゃないかな。間違いないよ。だから、元気出して!」
凛香は広海の上着のポケットにある車のキーを、半ば横取りするような形で取り出し、店を出て地下駐車場に向った。
こんな状態の広海にハンドルを握らせるわけにはいかない。彼と同じ車種の車を弟が所持しているので、見よう見真似でなんとか車を走らせることが出来るだろうとふんだ凛香は、覚悟を決めて運転席に乗り込む。
それにしても、オートマ限定免許でなくてよかったと思ったのは、今日が初めてだった。
本当に大丈夫なのかと助手席で訝しげな視線を向ける広海を振り切って、凛香は豪快にアクセルを踏んだ。一瞬、ギアの切替にとまどうが、結構いけるものだ。
隣で、あーあーあー! とか、おおー! とか、あちゃー! とか奇声を発する男のことは気にせず、周囲の車の流れに沿って走らせる。
にしても……。最後の瑛子の言葉が突如気になってきた。「あの話」って、いったい何のことなのだろう。広海のやつ、またこっそり何かしくんでいるのか? 凛香の心は休まらない。
ちらりと、隣の広海を覗き見る。今は、追求すべき時ではないとも思う。彼の不安が一掃されたのち、きっちり説明してもらえばいい。
凛香は鼻をフンと鳴らし、強引にシフトレバーを動かしてエンジン音を唸らせながら、目的地へと車を進めた。
予定より早めにスタジオに到着した凛香は、なぜかコーヒー店を出る時より疲れた顔をした広海を従えて、コンパクトながらも必要な機材がすべてそろっている防音ルームに入った。
「広海、大丈夫か?」
凛香は広海の顔をのぞきこみながら言った。
「おかげさまで。でも、おまえの運転には、その、キモヲヒヤシタ……あ、いや、何でもない」
ごにょごにょと口ごもる広海に凛香は納得がいかない。
「言いたいことがあればはっきり言えばいいだろ。……ったく。でも、久しぶりの運転、おもしろかったな。あの車、私に合ってるかも。ねえ広海、いつでも運転変わるから、疲れている時は言って」
「それは、勘弁……あ、いや、その、ありがとう。どうしても、って時だけお願いする、よ」
広海の態度が煮え切らない。何が気に入らないのだろう。自称、レディーファースト推進人として、遠慮しているのかもしれない。
「遠慮はいらないから。私は平気だし。じゃあ、そろそろ準備しようか」
きっと女性に運転させたことを悪いと思っているのだ。昔かたぎで変なところが律儀な広海に、そんな気遣いは無用だと理解してもらえるよう話し合っていかなければならない。
そんなことを考えている間にも、貴重な時間はどんどん経っていく。こんなことをしている場合ではない。
演奏を予定している曲のキーボード部分を、広海が弾いてパソコンに記憶させる。それを再生させて、生のドラムと凛香のボーカルを合わせていくのだ。
もしキーボード奏者が決まらなければ、この音源をそのまま本番にも使えばいい。まさしくカラオケ状態だが、それも仕方ないだろう。
でも広海は、そんな凛香の提案も聞いているのかいないのか、真剣に取り合おうとしない。当日の舞台は、すべて生で演奏しないと意味がないと彼の理論を振りかざす。
それは、こと音楽に関しては妥協の二文字を知らない広海が、今また十年ぶりに再君臨した瞬間でもあった。
徐々にリズム感が蘇る。いつのまにか身体がスウィングし始め、あの時のステージがそのまま再現されるのだ。
ボーカルのビブラートはやや抑え気味にして、音の切れの良さを最大限に活かす。広海のアレンジは昔と変わらず、もうすでに細部にわたってこだわりを見せ始める。
曲によって凛香の声の裏声の音域に変化をつけ、小さな声量で歌う部分のマイクの位置にも注文が入る。本当に小さく歌うのではなく、やや強めの声量を維持しながら、マイクを遠ざけるのだ。
凛香の声質には声量を無理して落としていくよりも、この方がいいピアニッシモを演出できるらしい。
とにかく広海の指示はどれもこれも的確なので、反論の余地も無い。昔はそのたびにぶつかり合うことも多かったが、結局は広海の主旨に沿った方が客受けもいいとわかってくると、素直に受け止めた方が得策だと知る。餅は餅屋ということわざどおり、専門家にまかせることも時として大切であると学んだのだ。