72.ライバル その2
「何がそんなにおかしいんだよ。ヒトの苦労も知らないくせに……。そもそも、広海が里見瑛子に毅然とした態度を取らないから、こういう結果になるんだろ?」
凛香の行き場のない怒りは収まりそうにない。
「だって……いっひっひっひっ……。まさかおまえが、里見さんを連れてくるなんて思いもしなかったし……あはっはっはっ!」
「だーかーらー。あんたは笑いすぎなんだよ! ムカつくやつめ……」
凛香の頬が無意識にぷうっと膨らむ。
「はいはい、わかりました。おまえの言うとおりです。俺だってあんな修羅場は嫌に決まってるだろ? めっちゃ緊張したし。手には冷や汗べったりで。やっとその場から解放されて、そんな情けない自分すらおかしく思えて。笑わずにいられなかった。決しておまえや里見さんを馬鹿にしたわけじゃないんだ。だからさ、そんなに怒るなよ」
「怒ってなんかいないし! ふん!」
凛香は鼻息も荒く、そっぽを向いた。
「俺は、今まで一度だって里見さんに甘い顔を見せたことはないし、口説いたこともない。それだけは信じてくれよな。なあ凛香。もしかして、俺とおまえが付き合ってることが、彼女に完全にバレちまったのか?」
「……」
外の景色を見ながら、凛香は無視を決め込む。
「そうか……。まあ、いずれわかることだしな」
返事もしていないのに肯定されたと受け止めるあたりが、ますます腹立たしい。言い返すのも馬鹿らしくなった凛香は、ひたすら沈黙を守り続けた。
「彼女になんか言われたのか?」
「……」
「やっぱりそうか」
何がやっぱりそうなのか……。広海の一人よがりもここまでくればたいしたものだと、凛香は彼に抵抗する自分がむなしくなる。
「いつだったかな。一学期の期末テストが終わって、答案を返し終わった頃だったと思うんだけど。音楽準備室に突然彼女が押しかけてきて、そろそろ私と付き合って下さいと言われたことがあったんだ」
「ええっ?」
これには凛香も黙ってはいられない。あまりにも衝撃的すぎるではないか。
「バレンタインの時にあれだけきっちり断ったのに、なんでまだそんなことを言ってくるんだろうと、マジでうざかった。でも職場の同僚だし、大学の後輩だし、校長のこともあるし……。あとあと気まずくなるのも嫌だろ? 今はまだ彼女は作らないんだと言って、きっぱりと断ったんだけどな。そのことを、里見さんの都合のいいように解釈されたんだと思う」
「ったく、広海ときたら……」
なんのことはない。凛香との新しい恋がスタートする直前に、広海はちゃっかり彼女に何度目かの告白をされていた、というわけだ。油断も隙もあったもんじゃない。
「広海、頼むから、それ以上話をややこしくしないでくれ。彼女は相当あんたに期待してるみたいだぞ。それに今年のバレンタインのお返しに素敵な物をもらったとか言って喜んでいるようだったし。いったい何をあげたんだ。付き合う気のない女性に思わせぶりな贈り物なんかするから、こういうことになるんだ! べぇーーっ!」
怒りの虫が収まらない凛香は、小さい子どもがするように目の下に人差し指を充てて引っ張り、おもいっきり舌を伸ばしてあかんべをした。
「あはは。ひっでえ顔。でも、おまえのその憎たらしくて変てこな顔も、やっぱり好きだなあ。ああ、キスしてえ」
次第に上半身を傾けてくる広海の肩を容赦なく押し返す。
「ふ、ふざけないで! ちゃんと前見て運転しろ!」
おまけに、さっきからもぞもぞと凛香の膝の上を節操なく動き回る広海の左手を、払いのけるようにパシッと引っ叩くのも忘れない。
「痛ってえー。ちょっとくらい、いいじゃないか……」
怒りに震える瞳で凛香に睨みつけられた広海は、とたん肩をすぼめ、おとなしくなる。
「わ、悪かった。もうしません、ごめんなさい」
凛香のエアギターならぬ、エア鬼のツノをひしひしと感じ取った広海は、ようやく真面目にハンドルを握り直した。
「で、話は元にもどるけど……。俺、里見さんにそんなもの贈ったっけ? 何も記憶にないんだけどな」
本当に憶えていないのだろうか。まさかそんなことはないだろうと思いながらも、しきりに首を捻る哀れな広海にヒントを告げる。
「アクセサリーを入れる何か、とか言ってた」
「ああ、思い出した! ホワイトデーの時に、ギフトショップで適当に見繕ってもらった陶器の入れ物に飴を入れて、チョコのお返しにしたんだ。一個五百円くらいだったかな。もしかして、それのことか?」
「……なるほど、そうかもしれない。里見瑛子ときたら、その入れ物を相当大事にしてるみたいに言ってたな」
「えっ? そんなに?」
「うん。きっとその入れ物が、彼女には何ものにも変え難い高級な物に見えたんだろうな。ああ……。彼女がちょっとかわいそうになってきたかも……」
好きな人からもらう品物なんてものは、決して値段では量れない。何をどんな理由でもらっても、嬉しいことには変わりないだろう。
それを広海の自分への気持ちだとプラス思考で受け止めた里見瑛子。実は彼女、その派手で今風な見かけとは違って、今どき珍しいくらい純情で一途な心を持った女性なのかもしれないとふとそう思った。
凛香は俯いたまま、今日も胸元でひっそりと輝くダイヤのネックレスを指先でなぞり、その手を広海の膝の上に静かに載せた。