71.ライバル その1
「凛香、遅かったじゃないか……って、おい! なんで、里見さんも一緒なんだ?」
すでに駐車場で待機していた広海が運転席の窓から顔をのぞかせ、瑛子の存在を認めるや否や目をまるくして、慌てて車から飛び降りた。
これはいったいどういうことだと、疑心暗鬼な視線を凛香に投げかけてくる。
「広海。あんたに話があるそうだ」
凛香は振り返ってすぐ後にいる瑛子の腕を掴み、広海の前にひょいと突き出した。
「痛いっ! さ、鷺野先生。乱暴はやめて下さいって、いつも言ってるじゃないですか!」
「乱暴? これのどこが乱暴だと?」
決して力任せに彼女の腕を握ったりはしていない。手をつなぐのとなんら変わりはないくらいのソフトな触れ方だったと思う。そして瑛子自らがピョコっと広海の前に進み出たではないか。
「だって無理やりこんな風に先生の前に連れてこられるから……。あ、あの、鶴本先生。あたしは、その……」
添えられた凛香の手を振りほどいた瑛子は、さも痛そうに掴まれた腕をさすりながら、訴えかけるような目を広海に向けた。
「あ、あの、鶴本先生。あたしは、その、つまり……」
「話とは、いったい何でしょう……」
「いや、あの、それが……」
さっきまでの勢いはどこへやら。広海を前にしたとたん、瑛子はまるで借りてきた猫のようにしゅんとなってしまった。
もじもじしながら、次第に声も消え入りそうになり、その場でうな垂れる。
一部始終を見る限り、瑛子の態度は計算された演出ではないと判断できる。瑛子は、本当に広海のことが好きなのだろう。その声も、その表情も、彼女の全身すべてが、彼を好きだと語っているように思えた。
しかし、だからと言って同情は禁物だ。凛香の広海への想いが、もう後へは引けないところまできているのも事実だからだ。
「里見先生。状況がいまいちよくわからないんだが……。とにかく学校内でこの状況はまずい。場所を変えよう。里見先生。隣町のSコーヒー、知ってる?」
広海が東高の生徒の学区外にあるコーヒーショップの店名を挙げる。
「し、知ってます。先月オープンしたばかりのチェーン店……ですよね?」
「そうだ。ならそこで話を聞こう。それでいいかな?」
「あっ、はい。わかりました。あの……」
まだその場から動こうとしない瑛子が、上目遣いで広海を見上げる。
「何?」
運転席のドアに手を掛けながら、広海が怪訝そうに訊ねた。
「一緒に、その……」
「一緒に?」
「あの、一緒に先生の車に乗せて行ってもらってもいいですか?」
そう言って助手席側に回り込もうとした瑛子を、広海が俊敏な動きで阻止する。彼女の前にバリケードのごとくのっそりと立ちはだかったのだ。
「凛香、早く乗れ」
「うん、わかった」
広海の目配せに応じるように頷き、凛香は促されるままに素早く助手席に乗り込んだ。
「そ、そんなあ……。鶴本先生。あたしはどうすればいいんですか? どうして鷺野先生だけ?」
行く手を阻まれて身動きが取れない瑛子が、顔を引き攣らせながらも広海に懇願の眼差しを向ける。
「ああ、申し訳ない。話が終わったら、もう学校には戻らないのでね。帰りの足がないと、里見先生は困るんじゃないかな? 君は自分の車で行った方がいいと思うけど」
腕を組んだ広海が、並んだ車の端の方に停めてある赤いセダンに視線を移す。
「そ、そうですね。わかりました。なら、自分の車で行きます。でも……」
「まだ何か?」
「これって、鷺野先生もあたしたちの話し合いに同席されるってことですか?」
瑛子がドア越しに、助手席に座る凛香を睨みつけて言った。
「そのつもりだが。何か不都合でも?」
「あっ、べ、別に……」
「では、お先に」
広海が瑛子に背を向け運転席のドアを開けると、するりとシートに腰を沈めた。
みるみる瑛子の顔が歪む。立ち止まったまま、何か言いたそうに一瞬口を開きかけたが、結局何も発することなくそのまま踵を返し、校舎に戻って行った。
凛香は広海と顔を見合わせ、ふうっとため息をつく。今までに一度も経験したことのないような超重量級の疲労感が、凛香の両肩から背中にかけて、ずっしりとのしかかってくる。
広海の気持を受け入れ、この人と付き合うことが、こんなに重く苦しいものだとは夢にも思わなかったのだ。
「広海。お願いだから、これ以上モテないでくれ……。私の身が持たないよ」
凛香のつぶやきをかき消すように車がエンジン音を発して、ゆっくりと動き始めた。
車の流れは良好だった。秋の気配などまだ微塵も感じられない幹線道路沿いの街路樹は、九月の明るい陽射しをたっぷりと浴びて、緑の葉を誇らしげに風に揺らしていた。
初めての赤信号で停止したとたん、広海がハンドルを叩き、声を上げて笑い出したのだ。
「何がそんなにおかしいんだ!」
意味不明な広海の笑い声が凛香の癇に障る。もちろん、瑛子は恋のライバルであるし、彼女を擁護するつもりはないが、切ない女心も知らず笑い続ける広海に、違和感を覚える。