69.順番抜かし その1
今週は目の回るような忙しさだった。もちろん仕事そのものの忙しさもあるが理由はそれだけではないと、水垢ひとつついていないピカピカの洗面所で、凛香は思考を巡らせていた。
今日は土曜日。ただし午前中は凛香も広海も部活の顧問としての仕事があるので早朝から出勤準備に余念がない。今朝も二人揃って広海の部屋から職場に向かうのだ。
プロポーズを受けた晩、一度だけ凛香のマンションで過ごしたことがあったが、シングルベッドの狭さと近所の住民の興味本位の視線がネックになって、それ以来、広海の官舎が二人の拠点として定着しつつあった。
広海の車で一緒に出勤するにあたって、凛香の提案した作戦が今のところ順調に遂行されている。
つまり……。毎朝、三人で出勤しているのだ。官舎近くに住む同僚の美術教師を巻き込み、広海の車に同乗してもらうことで、事なきを得ている。
美術教師の佐々木は、広海が凛香に思いを抱いているとわかった日からすこぶる上機嫌だ。
瑛子を振り向かせたい佐々木と、なんとしてでも瑛子を遠ざけたい広海の利害関係は見事に一致している。
凛香は広海と半同棲状態であることを佐々木に告げ、学校で怪しまれないために、是非とも一緒に出勤して欲しいと願ったところ、喜んで聞き届けてくれたのだ。
コンビニでばったり出会った生徒とも、今のところ非常に友好的な関係を保っている。凛香と広海の結婚も、次第に外堀が固められつつあった。
午後は市内の音楽スタジオに広海と一緒に出向く予定になっている。というのもそれには教頭が一役買っているのだ。
広海が文化祭のステージのことを話したところ、予想通り二つ返事で話に乗ってきた教頭は、昔の音楽仲間が経営している音楽スタジオを早速練習に使えるよう押さえてくれたのだ。
今日はめでたくも教師バンド結成の初日を迎えることとなり、ドラムとエレキギター、そして凛香のボーカルが初めてひとつの音楽として世に生まれ出る。
昔使っていたエレキはとっくに処分してしまったので、先日息子を伴って四半世紀ぶりに楽器店を巡ったなどと目じりにたっぷりしわを刻ませて笑みを浮かべる教頭は、間違いなく自分たちと同類であると凛香は確信した。
そして残すところはキーボードの担当者だが……。
残念ながら、まだ決まっていない。広海に心当たりはあるらしいのだが、もう少し待ってくれと言うばかりで、凛香には誰であるのかはまだ知らされていなかった。
文化祭までに本当に間に合うのだろうか? 実行委員の生徒たちも、水面下でどんどん準備を進めている。もう後には引けない所まで来ている。
いざと言う時のために、凛香は弾き語りをする覚悟も出来ていた。
午後の一時を過ぎて、ようやく美術部員の生徒達が全員帰宅したのを確認する。美術室の戸締りを済ませ、広海の待つ駐車場に向かおうと、階段を降りかけたその時に事件は起こった。
階段の途中で、凛香の進行方向にすっと誰かが立ちはだかるのだ。くるくるカールした巻き毛が肩の下で揺れるその人とは……。
そう。社会科教師歴三年目、相変らず広海にぞっこんの里見瑛子、その人だった。
身動きの取れない凛香を威嚇するかのように下の段から睨みつける瑛子の形相は、まるで般若の面のごとく、怒りと嫉妬に満ち溢れていた。
「鷺野先生。お話があります。ちょっとよろしいでしょうか!」
アイラインで縁取られた目をパッチリと見開いて、早口でまくし立てる。
が、よろしいわけがない。今からスタジオに音合わせに行くというのに、瑛子と話をする時間などあるはずもなく。
でも瑛子はいつもの彼女ではなかった。有無を言わせぬ毅然としたその態度に圧倒され、凛香はいつの間にか手を引かれて女子職員更衣室に引きずり込まれていた。
「お、おい。ちょっと待って! 私は時間がないと言ってるだろ? なのに……」
「なのにも、だのにもありません! いいですか、鷺野先生。今日と言う今日は、はっきりとさせてもらいますから!」
愛らしい顔の真ん中にあるこれまた上品でちょこんとした鼻から、瑛子らしからぬ荒い息が漏れる。
出勤義務のない土曜日ではあるが、半分以上の教師が所用で学校に出てきている。部活をしている生徒もいる。文化祭の準備に余念がない生徒会も、空き教室を実行委員会事務所と称して、多くの生徒が出入りしている。
そんな中で、いったい何を話すというのだろう。
凛香は更衣室の奥に設置してある和室で、テーブルをはさんで瑛子と向き合って座った。
「今日出勤してる女性職員は、あたしと鷺野先生だけなんです。なのでここには誰も入って来ません!」
凛香の目をじっと見据えながら、瑛子がきっぱりと言う。そりゃあそうだ。ここは女子更衣室なので、男性教師は誰も入室できない。
と言うことは、このまま誰に引き止められることもなく、延々、瑛子との気まずい対面が続くことになるのだろうか。
凛香は腕時計に目をやり、広海との待ち合わせ時刻が迫っていることに焦りを感じ始めていた。
「鷺野先生、前におっしゃっていましたよね。鶴本先生とは付き合ってないって。でも、それって、ホントなんですか? 補習講座以降、いつも鶴本先生と一緒に帰ってるみたいだし。朝だって……」
「ああ、それは……。まあ、あれだよ。夏以降、私の体の調子が悪かったのと、文化祭に向けて私物の荷物も多いので、佐々木先生共々、鶴本先生の世話になってるんだけど」
「それはそうですけど。でも、鷺野先生にはちゃんと付き合ってる彼氏さんがいるんだし。そんな無責任な行動は慎むべきだと思います。違いますか?」
む、無責任って……。
凛香はこの期に及んで、瑛子に嘘を突き通すつもりはなかった。きちんと本当のことを話すのが筋だと思っていた。
だがこんなに急に本人に責め立てられるなどとは想定外だったので、戸惑いを隠せない。
凛香は姿勢を正して、コホンとひとつ咳払いをした。
そして、壁にかけてある、山里の風景が描かれたカレンダーに目をやり、落ち着け落ち着くんだと自分自身に言い聞かせる。いよいよ何もかもぶちまける時が来たのだ。
「里見先生」
「あ……。は、はい」
凛香の真剣な眼差しに瑛子が一瞬たじろぐ。
「前に先生に言った時、あの時は確かに鶴本先生と付き合っていなかった。けど、ちょっと事態が急変してしまってね。前の彼とも別れたし。まあ、今は、その……。付き合っている。鶴本先生と」
「えっ……? つ、付き合っているんですか? 鶴本先生と?」
「そうだ」
目の前の瑛子の顔色がみるみる青ざめていく。