68.月夜のプロポーズ その2
だが、待てよ。来栖の方が先にルール違反を犯したのではなかっただろうか。
凛香という相手がいながら、勝手に見合いをして新しい相手に出会ってしまったのは、来栖だった。
もうすでに冷え切った関係ではあったが、彼と別れていたわけではない。
凛香が広海に身も心も許したのは、昨夜のこと。来栖とはそれ以前に話し合い、きっちり別れている。
だとすれば。瑛子には広海からきっぱりと言ってもらえば、なんとかなるのではないか。
凛香は自分に非がないとわかると、幾分気持が楽になった。
「おまえさあ、また何か一人で考えて、勝手に結論出してるだろ?」
「ええっ? あっ、い、いや、その……」
広海に急に顔を覗きこまれ、慌てふためく。
この頃、このようなパターンが多い。顔を見られているだけなのに、心の中まで見透かされているような感覚に陥るのだ。
凛香は脳内に駆け巡っていた二股疑惑を消し去り、遠慮がちに広海と目を合わせる。
「そ、それじゃあ、その……。結婚式は春休みで、お願いします」
「よしっ。これで決まりだな。今月中にでもおまえの実家に行って、ご両親にあいさつするよ」
「あいさつ? ああ、そうか。そうだよな。結婚って二人だけの問題ではないんだものね」
凛香は結婚へのあまりにも早い展開に気持ちがついていかない。そうなのだ。親にはまだ何も知らせていない。
来栖と別れたことすら言っていないというのに、昔の友人と結婚することになったと言えば、さぞかしびっくりするだろう。
凛香の両親は共働きだ。それも自営業なので、多忙を極めている。急にあいさつと言っても、家にいないのであれば話にならない。
「なあ、広海。多分うちの親、今月中に会うのは無理だと思う。両親そろって、北海道に転勤中なんだ。文化祭が終わってからでもいいか?」
「俺は別にいいけど……。それにしても、北海道って。えらい遠いな。札幌か?」
「いや、違う。函館だ」
「函館? へえーー。そうなんだ。でも、夫婦揃って北海道に転勤って、なんか、すごいなあ」
「そうか? 普通だと思うけど」
「いや、普通じゃないでしょ。昔からおまえの親父さん、忙しそうだったのは知ってるけど。お母さんまで一緒にって……。でもおまえんち、自営って言ってなかったか? なのに転勤って、どういうことだ。あれ? 俺の感覚がおかしいのかな」
「あ──。私も詳しいことはよくわからないけど、とにかく今は函館にいる。運送業だから、函館に何か利便性があるんじゃないかな?」
「ふーん。そうか。じゃあ、ご両親がこっちに帰って来た時、おまえの実家にお邪魔させてもらうことにするよ」
「わかった。また親にきいてみる。それはさておき、うちの両親は私たちの結婚に反対はしないだろうから、はっきり言って、事後報告でも問題はないと思う。っていうか、これまでにもさんざん見合い写真を押し付けられて、結婚をせっつかれていたからな。結婚が決まったって言えば、大喜びすると思う。それに広海のこともよく知ってるし」
「見合い? それは聞き捨てならないな。来栖さんといい、見合い相手といい。おまえを取られなくてよかったよ。ああ、でも心配。おまえの決心が揺らぐような相手が現れたら、どうしよう……」
「そんなわけないだろ。もう私には、広海しかいないし。はあ……。それにしても、結婚って大変だな。他にも決めなければならないことがいろいろあるし。式場のことや、住む家のことも」
ついさっきまでは、プロポーズの言葉が嬉しくて気分も高揚していたのだが、突如、現実という大きな壁に阻まれ、何から手をつけていいのかわからなくなる。
今までは、なんでも自分で決断して自分の思うようにやってきて、何も後悔はなかったはずなのに。
ここ一番の人生の分岐点でどうしようもないほど不安な気持になる。
「そうだな。いろいろ大変そうだけど、順番に決めていくしかない。学校にも早めに結婚のことを言った方がいいだろうし」
「学校にも?」
それは逆だと思うけど。なるべく悟られないようにして、ひっそりと付き合っている方がいいのではないだろうか。
「そうだ。あまりギリギリに結婚のことを知らせると迷惑かけるだろ? 勤務地の移動のこともあるし」
「あ……。そうか、そうだったな」
結婚とはそういうことなのだ。個人営業の仕事と違って、生徒という成長期真っ盛りの人間を相手に営まれる学校では、夫婦のまま同じ職場で勤務し続けるのは難しい。
これまでも職場結婚をした人は、皆、他の職場へ移動して行った。
「ねえ、広海。私、どうしたらいいんだろう。こんな経験は生まれて初めてだから、先が見えなくて、なんだか怖い。本当にうまく結婚にたどり着けるのかな……」
「あははは! 凛香ともあろう人が、どうしてこれくらいのことで怖気づいてるんだよ。まだ何も始まっていない。全てはこれからだっていうのに。でも安心しろ。なんとかなるって。俺にまかせておけよ。な?」
凛香ははっとして広海を見る。
俺にまかせておけ……か。凛香は心の中で、広海が今言った言葉をかみしめる。
広海の言うとおり、結婚というのは二人の共同作業だ。こうやって励まし合い、互いを補い合って、一歩ずつ目標に向かって進んでいく作業なのだ。
なんだか今夜は、広海が頼もしく思える。
九月といっても、まだまだ夏の名残があちこちに残っている蒸し暑い月夜の晩。広海と触れ合っている右肩が少し汗ばんできたけれど、もう少しこのまま一緒にいたいと思った。
「広海……」
凛香は前方に自分の住むマンションが見えて来たのを確認しながらつぶやいた。
「なんだ、凛香」
広海が前を見たまま答える。
「今夜……。うちに泊まっていく?」
凛香を見た広海の目が、一瞬、大きく見開かれる。自分の耳を疑っているのだろうか。とても不思議そうな顔をしてこっちを見ている。
でも次の瞬間には目を細め、微笑み、そして……。凛香の唇にそっと口づけを落として、イエスと小さくささやくのだ。