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そして、始まる  作者: 大平麻由理
本編
66/91

66.アポロの横顔 その2

 今ならまだ間に合う。ただちに広海と別れて、この際この男に立派なのしでも付けて里見瑛子に差し出した方が身のためではないかとさえ思う。

 広海へのイライラがピークに達してきた。


「あ──! んもうっ! グタグタうるさい奴だなあ。味見のことも、佐々木先生のことも。どれもそれほど気にしてない。あのなあ、はっきりと言っておくけど……。私、あんたと結婚するなんて、ひとっ言も言ってないですから。勝手にほざくな!」


 言ってやった。そうだ、そうだ。ちゃんとプロポーズもしていないくせに、一人勝手に盛り上がるな、と言いたいのだ。

 凛香は柄にも無くぷーっと頬を膨らませ、広海の皿に残っている一番大きなチキンのグリル焼きに垂直にフォークを突き刺し、素早く口に放り込んだ。


「なんだ。そういうことか。俺、ちゃんと言わなかったっけ? おまえもそのことは了解済みだと思ってたけどな」

「了解なんかしてないし!」

「そうか。にしても凛香。俺の前で、そんなにかわいくすねるなよ。なあ、凛香さん。……って、俺の、俺の、俺の! とっておきのチキンのグリル焼きが!」

「はいはい、そうですよ、すねてますけど何か? だから私、今夜はあんたんちに行かないから。うちまで歩いて帰るし。広海もどうぞご自由に! ……にしてもこのチキン、うまいな」


 凛香は柔らかくてジューシーなチキンのグリル焼きを堪能した後、グラスの水をクイっと飲み干した。


「わ、わかったよ。じゃあ、一緒に歩いておまえんちに行こう。今夜は月がきれいだしな。そうだな、四十分もあれば着くだろう。おまえをマンションまで送り届けたら、俺はとっとと退散するから。それならいいだろ? さ、メシも済んだし、もう出よう」


 広海がすくっと立ち上がる。その隙に、今夜こそ自分が支払いをしようと伝票ホルダーに手を伸ばすが、結局、広海に奪い取られてしまった。

 いつものことだが、もし今夜限りで別れる、なんてことになれば、このまま食事代は甘えっぱなしになってしまう。なぜかすっきりしない。

 凛香はつり銭をポケットに入れる広海に、仕方なく、いつもありがとうとボソッと礼を言う。

 ほとんど収入も変わらないのに、男だからというだけで、一方ばかりが支払うのはどこかフェアじゃないし、おかしいと常々思っていたからだ。

 すでに凛香の気持を察していたのか、広海が店を出たところで振り返り、特上の笑みを見せる。


「おれがそうしたいだけなんだから、おまえは何も気にするな。凛香のために支払う金は、惜しくもなんともない。俺の全財産をおまえにやってもいいとさえ思っている、と言っても、貯金はほんのわずかしかないけどな。あはっはっはっは!」


 などと言って……。


「おい、どうしたんだ? 凛香? おい!」


 ───悩殺。


 凛香は立ち止まったまま、一歩たりとも動けなくなってしまった。

 いったい何事だろうと、歩道の真ん中で立ち止まる凛香を避けるようにして、道行く人が迂回していく。

 凛香の心臓がますます早鐘を打ち始める。広海の笑顔に、声に、そして、その優しさに触れたら最後、彼に見つめられるだけで、身体中が蕩けそうになるのだ。それも立っていられないほどに。

 やっぱり広海は自分だけのもの。里見瑛子に渡してなるものかと、凛香は自分自身に言い聞かせる。


「ごめん。ちょっと、その……」


 凛香は口ごもりながら、下を向く。


「変なやつだな。まあいい。さあ、凛香。行こう。もたもたしてると明日になっちまうぞ」


 広海がぬっと手を出してくる。彼の手に引き込まれるように、凛香は自分の手を重ねる。重ねたはずなのに、広海の手はそのままどこかに消えてしまい、そして……。

 彼のたくましい腕が凛香の肩をぎゅっと抱き寄せるのだ。

 そっと横を見ると、広海の横顔が月に照らされて、輪郭がはっきりと映し出されていた。

 それがあまりにも明瞭に浮かび上がっているように見えたので、驚きのあまり声もでない状況なのだ。

 すっと通った鼻筋とぱっちりとした目元が、石膏像のアポロの横顔にぴったりと重なってしまう。

 何度も何度もデッサンしたアポロ像の輪郭は、目をつぶっていても形作ることが出来るくらい、凛香の脳裏に焼きついていた。

 こんなにも似ているだなんて、今まで全く気付かなかった。

 ヘルメスでもない。ブルータスでもない。凛香が他の何よりもアポロ像のデッサンを好んだのは、広海の面影をそこに追い求めていたからなのだろうかと思うくらい、よく似ていた。


「なあ、凛香……」


 口を開いたとたん、アポロが広海に生まれ変わる。


「なに?」


 凛香を見た広海が照れたように口元を緩め、ふっと息を漏らした。


「今日の昼、嬉しかったよ。俺のこと、好きだと言ってくれただろ?」

「あ、ああ……」


 凛香は頷く。確かにそう言ったと。


「俺、あの時、ホントにどうしようかと迷った。真剣に悩んだんだぞ。あのまま学校を抜け出して、おまえを連れて帰るところだったんだ。誰に何を言われてもいい、免職になっても後悔しないとまで思った」

「広海……」

「佐々木先生が来てくれたおかげで、目が醒めたけどな」


 髪の上から、広海の柔らかい口付けが、二度、三度と舞い降りてくる。耳たぶに彼の熱い吐息を感じた時、凛香の心臓がどくっと鳴った。

 肩にあった広海の手が、髪を梳くように上から下へと撫でる。そして動きを止めた次の瞬間。


「 凛香。……結婚しよう。なあ、凛香。俺と結婚してくれる?」


 アポロの求婚は、突然だった。



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