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そして、始まる  作者: 大平麻由理
本編
65/91

65.アポロの横顔 その1

 その日、凛香と広海がおたふくについたのは夜の九時前だった。

 職員会議が長引き、そのあと書類を片付けて教室の戸締りを確認し、広海と一緒に学校を出た時には、すでに八時半を回っていた。

 昼に食べた焼きそばパンなんて、とっくの昔に跡形もなく消化してしまったのだろう。凛香のお腹は五時くらいからグーグー鳴りっ放しで、会議中突如訪れる沈黙に何度も冷や汗をかいた。


 早く何か食べたい。そして……眠い。

 凛香が何を注文するのかをあらかじめ店側はわかっていたかのように、オーダーするや否や、瞬く間にきのこパスタがテーブルに運ばれてくる。

 このスピーディーさが、おたふくの人気の所以でもあるのだが、今日は一段と早い。

 待っていましたとばかりに、喜び勇んでフォークにパスタをくるくると巻きつけ、パクっと食べる。きのことオリーブオイルと醤油の絶妙なバランスが凛香の喉をうならせるのだ。

 しめじとエリンギの歯ごたえがたまらない。上に散りばめられた海苔がよりいっそう全体の風味を引き立てている。

 あまりのおいしさに、すべてを独り占めしたくなった凛香は、出来る限り腕でバリケードを作り、隣の広海のフォークが伸びてこないように阻止することに努めた。


「なあ、凛香……」


 ドキッとして広海を見る。が、彼のフォークは自分の皿の上でチキンのグリル焼きを突き刺している真っ最中だった。

 パスタが狙われているのではないとわかると凛香は安堵のため息を漏らし、心置きなく彼の話に耳を傾ける準備が整った。


「今夜の予定なんだが」


 一口大に切ったチキンを口に頬張りもごもごしながら、広海がこちらをちらっと見て言った。


「ここから俺の官舎まで、歩いても二十分くらいだ。メシが終わったら一緒に車を取りに帰って、凛香のマンションまで送って行く。そしておまえは着替えや仕事道具を準備して、また俺の官舎に舞い戻るってのはどうだ? それとも、ここで待ってるか? 俺だけで車を取りに帰ってもいいぞ。おまえ、やっと体調が戻ってきたばかりだものな。これ以上、無理はさせられないから。そうだ、ありったけの着替えを持って来るといい。いちいち取りに帰るの、面倒くさいだろ? そうすりゃあ、週末までうちにいられるじゃないか」


 今度はチキンの横に添えてあるブロッコリーをフォークで刺し、凛香の口の前に鮮やかな緑色の物体をちらつかせるのだ。おまえも味見するかと言って。


「って、私にくれるのは野菜ばかりかよ」


 凛香は放り込まれる直前に口を閉じた。


「あたりまえさ。女性はこういうのが好きなんだろ? 現におまえ、きのこばかり食ってるじゃないか……って、えっ? ホントは鶏が食いたかったのか? なら、そう言えよ。よし、一切れおまえにやろう」


 広海が凛香の口に無理やりブロッコリーを押し込んだあと、チキンの小さな一切れをパスタの皿の隅にちょこんと置く。そして……。あああああ! 何てことだ!


「お、おい。誰がパスタを食べていいって言った! あーあ。なくなってしまったじゃない。私の大事な、きのこパスタが……」


 フォークに巻きつく限り幾重にも巻きつけたパスタを奪い取った広海が、目にも留まらぬ早業でそれをぱくりと食べてしまい、満足げな笑みを浮かべる。

 うんめえな、このパスタ。きのこが、まるであわびみたいじゃねーかと何度も賞賛する。 


「ったく、油断も隙もあったもんじゃないな。で、この後、うちまで送ってくれるのはいいが、また広海んちに戻るって、なんか面倒くさいな。今日はこのまま帰ろっかな……」


 食べ物の恨みは、愛よりも深し。凛香は空になった皿にフォークを置き、パスタ泥棒にチクリと先制攻撃を仕掛ける。 


「その選択肢はなし。おまえは今夜も俺と一緒だ。いいな」

「勝手に言ってろ」

「じゃあ、勝手ついでに言わせてもらうが。実は、提案があるんだ……。おまえも官舎に移って来ないか? 俺の部屋の隣、空いてるだろ? 希望すればそこに入れてもらえると思うんだ。ただ数年後には、あの官舎は民間に売却するって噂もある。更地にすりゃあ、結構便利な場所だし、利益も出る。県も財政難だからな。このご時勢、県が自ら建て替えるより、いっそ売っぱらって、資金を調達する方がいいってことなんだろう。立ち退きまで取りあえずあそこにいて、将来は、俺かおまえの転勤先に合せて新居を選ぶという段取りでどうだ」


 凛香は目がテンになった。付き合い始めてまだわずかの時間しか経っていないというのに、もう新居の話ときた。

 まだ広海との結婚を承諾した覚えは一切ない。ここは譲れない重要ポイントだ。


「なんで私が官舎に移らないといけないんだ。今のままでも不都合はないと思うけど?」


 毎日職場で顔を合わせているし、こうやって夜も一緒に過ごせるのだ。凛香はそれで十分だと思っているのだが。


「毎回荷物を取りに帰るのも大変だし、俺の部屋に二人一緒に住むには狭すぎるし。ならば、俺が凛香のマンション近くに引っ越せばいいんだろうけど、ピアノを動かすとなると、これまたいろいろ問題もあるしな。だから、おまえが官舎に来て、凛香の借りた方を寝室とアトリエとして使えば、ちょうどいいと思うんだけど? 2DK二つで4DDKKだ」

「はあ? なんだよ、その4DDKKってのは。意味がわからない!」

「だから……。隣なら、ベランダの境界板を取ってもらえば、行き来も簡単に出来て、部屋が繋がるってことだよ」


 そんなこと、いちいち説明してもらわなくてもわかる。だから、凛香が言いたいのはそうじゃなくて……。


「おまえ、嫌なのか? 今はやりのリノベーションだぜ。我ながらいいアイデアだと思ったんだが……」


 凛香は答える気力すら残っていなかった。もう、疲れた。これ以上広海と話していてもらちが明かないとわかったからには、凛香は今すぐにでも家に帰って、一人で自分のベッドに横になりたいと思った。


「おまえ、怒ってるだろ? 何が気に食わないんだ。パスタの味見のひと口が多かったからか? よし、もう一品、何か追加しよう。ピザもうまそうだぞ。あっ、それとも……。今日の昼、佐々木先生に俺たちのことがバレちまったのが心配なのか?」


 本当にわからないのだろうか? 首を左右にかしげ、相棒の不機嫌さの理由をあれこれ詮索する広海に、凛香は呆れ返っていた。

 ここまで鈍感とあれば、今までの彼女もさぞかしこの男には苦労させられたことだろうと同情する。



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