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そして、始まる  作者: 大平麻由理
本編
60/91

60.派手好きな彼氏 その1

 凛香は、あれから明け方まで広海と飲み続けた。

 砂川の期待に応えるため、あれこれ策を練ったのだが、不思議な物でついさっきまでのとろけそうなほどの恋人モードが、瞬時に昔の音楽仲間モードに切り替わり、時に激しく議論を交わしたりもした。

 かと思えば、ギターを取り出してきた広海がゆっくりとアルペジオを奏で始めると、いつしか一緒になつかしい曲を口ずさみ、長年のブランクなど微塵も感じさせないくらい息の合ったハーモニーが、室内に響く。

 いくら住人が少ない官舎とはいえ、真夜中だ。近隣から苦情が舞い込む可能性もある。

 歌い終わったあと、凛香は広海と顔を見合わせて、いたずらをした後の子どものように首をすくめてクスッと笑った。

 そしてその先は、以前の二人には決してなかったこと……。そう。見つめ合い、顔を寄せて、そっと唇を重ねるのだ。

 初めビール味だった口づけは、凛香の父親お気に入りの冷酒味に変わり、広海のとっておきの白ワイン味で締めくくられる。

 一晩の間に交わしたキスの数は……。もう途中から数えるのを放棄してしまったくらい、何度も繰り返された。広海がこんなにもキス魔だったとは凛香は今日まで全く知らなかった。

 でも彼は言った。俺、こんなにキスするの生まれて初めてだ、と。今日から突然キス魔になったということらしい。


 六時半に携帯のアラームで目が覚めた時、凛香はソファの上に行儀よく横たわっていたが、広海は凛香の真下、つまりリビングの床で、ビールの空き缶を枕にソファとテーブルの細いすき間にはまり込むようにして眠っていた。

 確か、二人で抱き合うようにしてソファに身体を横たえたはずだった。ということは、凛香も知らないうちに、広海が自然落下したということだろう。

 いくら北欧製で大きめのソファだと言っても、大人が二人で寝るのには到底無理がある。そんな簡単なことに今ごろになって気付くのだ。

 凛香は、床に転がって気持よさそうに眠っている広海をそのままに、本日の始業式のために持参した麻のパンツスーツに着替え、朝食の準備に取り掛かった。


 ピカピカに磨きこまれたシンクの下からフライパンを取り出し、これまた新品同様のコンロの上にそれを載せて、目玉焼きを作る。

 初めて使う他人のキッチンなのに、凛香のイメージどおりの場所に使いたい物が収納してあり、とてもスムーズに事が運ぶ。

 半熟卵が好きな広海のために、黄身が固まらないうちに皿に移し、冷蔵庫の野菜室に入っていたトマトを切って添え、リビングのテーブルに運んだ。


「広海、ひーろーみー。起きろ。朝ごはん、出来たぞ」


 凛香はしゃがんでまだ寝ている広海を揺り動かす。

 目を開けた後もしばらく微動だにしなかった広海が、ようやくいつもと違う朝の状況を認識したのか、慌てて身を起こし、寝起きとは思えないほどの極上の笑顔を振りまいて凛香を抱きしめた。


 目玉焼きと湯を注いだだけのインスタント味噌汁の朝ごはんを、恋人になったばかりの男性と向かい合って食べる。

 凛香にとってそれは、生まれて初めての経験だった。今まで付き合った相手とは、一緒に朝を迎えたことなど一度もなかったのだ。

 広海の淹れてくれたコーヒーも最高においしい。

 いい香りが部屋中を包み、満たされた気持になる。毎朝広海のコーヒーが飲めたなら、どんなに幸せだろうとまで思ってしまう。

 目の前の愛しい人は、いつにも増して目じりを垂らし、じっとこっちを見つめた後、微笑みかけたりする。

 ちょっと薄気味悪い。


「広海。へらへらしてないで、早くコーヒーを飲んで。さ、仕事に行くぞ。忘れ物はない?」


 凛香は食器を片付けながら、部屋をぐるりと見回す。


「ある。大事なもの……」


 そう言って、コーヒーカップを手にした広海がぬっと立ち上がり、シンクの前に立つ凛香の唇を、これまた器用に瞬時に奪う。

 ったくもう、どんな忘れ物だ。朝からキスとか、本当に信じられない。

 凛香は広海のあまりにも大胆な行動に耳まで真っ赤にして、ぷいと顔を背けた。


 夕べはアルコールも入っていたし、自然とそういうことも出来た。ロマンス小説の主人公さながらに、愛される喜びに浸ってもいた。いちゃいちゃベタベタするのがこんなにも楽しいと思ったのも、初めての経験だった。

 でも今は太陽の光が燦々と窓越しに降り注ぐ清らかな朝だ。どうにもこうにも恥ずかしすぎて、どんな顔をすればいいのかわからない。

 万が一、学校内でそんなそぶりを見せられた日には……。

 即、別れてやる!

 凛香は鼻息も荒く、彼のラブラブ攻撃をかわすようにして、身支度を整えた。




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