表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
そして、始まる  作者: 大平麻由理
本編
6/91

6.たくらみ その1

 遅刻して来た生徒の指導がやっとのこと終わり、初めて両手でそれらしく弾けた喜びを全身で表して、満足そうに帰って行った。


 生徒の家にピアノはなく、弟の鍵盤ハーモニカで練習して来たと言って恥ずかしそうに頭を掻いていた。

 弟に何度も叱られながら指使いを教えてもらい、完全に兄の威厳を失ったと、最初は自信なさげにピアノに向かっていた彼だったが、終わる頃には鼻息も荒く、その目は充足感に満ち溢れていた。


 ピアノなど弾いたこともなかった彼は、将来小学校の教師になりたい一心で、この補習講座を受けている。

 今日もこの後、友人の家のピアノを借りて練習するのだと息巻く。

 そして、子どもの好きなアニメソングを両手でカッコよく弾けるようになるのが夢だと目を輝かせていた。


 次の生徒が来るまでに少し間がある。今の内に昼食を済ませようと、コンビニのビニール袋からおにぎりを取り出した。

 これが本日初めての食事だ。朝もぎりぎりに家を飛び出してきたので、水以外は何も口にしていない。

 凛香は好物の高菜のおにぎりをほおばりながら、この補習講座を引き受ける発端となった、先日の教職員の飲み会のことを思い出していた。



 毎月千円ずつ積み立てた会費で、学期末ごとに学校全体の職員の親睦を兼ねての飲み会が催される。

 あまり気の進まないその会に、毎回仕方なく参加していた。

 先日もその状況は変わらず、せめて積み立てた分の元を取るためだけにでもと、宴会場に席を連ねていたのだ。


 運ばれてくる料理と飲み放題のプランから推測するに、追加徴収金は二千円くらいだろうと脳内電卓をたたいた凛香は、まずまずの品揃えに概ね及第点を付ける。

 アルコールは控えめにして、とにかく食べることに徹すると決めた瞬間から、黙々と箸を動かし始めた。

 うわべだけの付き合いならしない方がましだと常日頃からあからさまな態度で示している凛香には、他の皆も心得た物で、誰も彼女に深入りしてこない。

 おかげで、あれこれ絡まれることもなく、これ幸いとどんどん食事が進む。 

 そこまでは順調だった。酢の物も、韓国風の和え物も、牛のミニステーキも……。どんどん凛香の胃に収まっていったのだが。


 あと数十分もすればこの場から解放される。だからもう少しの辛抱だと自分に言い聞かせ、この春転勤してきたばかりのママさん先生が、凛香の隣の席で自分の子どもの自慢話を延々話し続けるのも、黙って耐え忍んでいたというのに。

 東高きってのイケメンだともてはやされている音楽教師、鶴本広海が、凛香に本日最大の不幸をもたらしたのは、その直後だった……。


「盛り上がっておりますところ、大変恐縮なのですが。少しお時間をいただけますでしょうか」


 長身の広海が宴会場の端の席からぬっと立ち上がり、日頃女子生徒たちが目をハートマークにして言うところの、ス、テ、キ、なテナーボイスを惜しげもなく部屋の隅々にまで撒き散らしてくれた。

 ただし凛香にとっては、それも迷惑な騒音でしかないのは、ここではっきりと言っておこう。

 許されるのなら、耳栓をぎゅっと詰めておきたいくらいだった。


 凛香はこの時すでに広海の魂胆に気付いていた。

 というのも、三日前に誰もいない学校の廊下ですれ違った時に言われていたのだ。


「おい、凛香。おまえこの夏休み、どうせ暇だろ? 補習講座を手伝え。はい、決まりね」 と、それはもう、ありえないほどの上から目線で。


 もちろん、即断った。ぎろっと睨みつけて言ってやったのだ。「いーやーだー」 と。

 小学生なら、あかんべをするような勢いで、思いっきり意地悪く言い返してやった。


「はあ? 何でだよ。かわいい生徒のために頑張ってやろう、とか、一緒に苦難を乗り越えてやろう、とか、果てしない受験地獄の道のりを二人三脚で取り組もう、とか。凛香にそんな思いやりはないのか?」


 などとこれまたもっともらしい言葉をぐだぐだと並べて、同情を誘おうとする。

 そういうことならご心配なく。美術の指導でしっかりと生徒の力になっていますから。

 凛香は、それでなくても暑い学校の廊下でこれ以上無駄な時間を過ごすのが馬鹿らしく、必死になって凛香を巻き込もうとする広海を、天然サウナに置き捨てて、疾風のごとく立ち去った、というわけだ。


 そこで窮地に立たされた広海が、今ここで全職員を前にそのことを頼もうと立ち上がったに違いない。


「鶴本先生、あのことでしょうか? ならどうぞ。皆さんがそろっているいい機会なので、是非、協力者を募ってみて下さい」


 教頭が彼を擁護してそんなことを言う。何かにつけて教頭は彼の肩を持つのだ。凛香はそのことも以前から気に入らなかった。

 人のいい教頭は、あいつの本性を知らないだけ。あいつの素性を知った日には……。


「えーー、皆さん、食事を続けながら聞いてください。実は、補習講座の件でお願いがありまして……。ピアノも声楽も初心者、あるいは未経験なのに、教育系の学部や学科に進学をのぞんでいる生徒が、今年は大変多いのです。先生方の中で、ピアノや声楽の経験者はいらっしゃいませんでしょうか」


 さっきまでの雑談はどこかに消え、しんと静まり返った会場内には、時おりわざとらしい咳ばらいが響くだけだった。



「あの……。どなたかピアノや声楽の経験者はいらっしゃいませんでしょうか。学生の頃、ちょっとだけかじったとか、カラオケ好きな方でも結構です。いらっしゃいませんか? 受験対策の補習講座を手伝っていただければ、ありがたいのですが……」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ