58.過去を乗り越え、そして今 その1
防音室の壁に掛けられているアナログ時計が、深夜の零時過ぎを指していた。それはかれこれ、二時間近くもこの狭い部屋に二人でいることを証明している。
最初は確かに、ピアノを聴いていただけだった。
汗ばんだ広海の胸に抱かれながら、凛香は彼の肩にそっと口付けた。するとすぐそれに応えるように、凛香の額に彼の柔らかい唇がかすめる。そして彼女の上に覆いかぶさるように身体を動かした広海が、凛香を覗き見る。
「ああ……。このままずっと、おまえとこうしていたい」
広海がそう言って目を細める。
「私だって……」
広海の唇が再び重なる。
「凛香、愛してるよ。もうおまえを、誰にも渡さない」
「ひろみ……」
凛香は広海の背中に手を回し、身体に足を絡めた。何度も何度も訪れる満ち足りた震えに身を任せる。
こんなにもひとつになることが幸せだと思ったことはなかった。広海のすべてを受け入れる自分が愛おしくもあった。
「シャワーに行くけど……。おまえは?」
ようやく身体を離した広海が凛香の頬を撫でながら掠れた声で言った。
「あ、ああ……。広海が先に行って。私はあとにする」
「俺は別におまえと一緒でもいいんだぜ」
薄明かりの中、再び広海の視線が凛香の全身を舐め回すように追いかける。凛香は反射的に身をよじり、手で身体を覆い隠した。
広海と一緒にシャワーだなんて、いくらなんでもそれは無理だ。無理に決まってる。
もちろん来栖と付き合っている時も、そんな大胆なふるまいを敢行した記憶はない。最初はそれを望んでいた来栖も、ついにはあきらめ、凛香の意志を尊重してくれていた、と思っていたが……。
そのことすら、別れの原因のひとつであるとするならば、広海の誘いを断ったのはまずいのではないかと、ほんの一瞬、不安がよぎる。
けれど、あくまでもこういうことは暗闇でこっそりと執り行なうべきだという凛香のポリシーは、そう簡単に崩せるものではない。
「一緒にだなんて、なにを言出だすのか。……だから、そんなに見ないで! もういいから、さっさと行ってよ!」
ついさっきまでは、広海の腕の中でどんな恥ずかしい要望にも応えた凛香だったが、今はもうそのスイッチは切れてしまった。
広海が大人の男であることを客観的に見た瞬間、羞恥心で死にそうになる。
「今さら、何恥ずかしがってるんだ。もう手遅れだよ。すべて、確かめさせてもらったから。想像以上に柔らかい肌、形のいい胸、くびれた腰、そして……」
「やめてよ。それ以上はもういいって。ああ、だめっ! 見るなってば!」
「はははは……。わかったわかった。じゃあお先に」
凛香の慌てる様子を楽しんでいるかのような余裕のある態度がますます癪に障る。
引き締まった体躯を惜しげもなく晒しながら、広海が笑い声を上げながら部屋を出て行った。
凛香は大急ぎで辺りに撒き散らした衣服をかき集め、身繕いを整えると、隣のリビングルームのソファに腰を下ろした。
まさか今夜、広海とこんなことになろうとは……。凛香自身も、想定外の成り行きだった。
そうとわかっていれば、下着だってもっとましな物を選んだというのに。
アルコールを口にしないうちにまき起こった数々の行為は、どれも広海の真っ直ぐな想いが込められていて、ゆっくりと凛香の心のわだかまりを解きほぐしていった。
嘘偽りのない広海の気持ちをしっかりと受け止め、彼女自身も想いのすべてを彼に注ぎきった有意義なひと時だったと思う。
広海とこうなるのは時間の問題だとすでにわかっていた。
声を大にして言うようなことでもないが、もちろん凛香は男性と身体を重ねるのは今回が初めてではない。それは広海も同じだろう。
でも……。来栖にも、そして遠い日の記憶の中に薄っすらと残る初めてだった人にも感じたことの無かった、苦しいほどの胸の高鳴りと広海への愛しい気持ちが、行為のあいだ中、ずっと彼女を取り巻いていたのだ。
広海がささやく秘めた言葉の数々も、口付けも、愛撫する指先も、その先にあるものすべてが凛香の心を震わせ、魂までも揺すぶられたように感じたのは、紛れもない真実だった。
幸せだった。この人とこれからもずっと一緒にいたい、もう離れたくないと思った。
バスルームの折り戸がガタッと鳴ると同時に、キッチンの食器棚のガラス戸がガシャッと音を立てて共鳴する。広海がシャワーを終えて出てきたのだ。
「おい、なんでもう、服なんか着ちゃってるの?」
「あ、いや、あのままでは、その……」
「俺を追いかけて、風呂場に来てくれるんじゃないかって、期待してたのによ。ほんと、おまえ、かわいいねえ。今度は一緒に入ろうな。な、凛香ちゃん!」
タオルを腰に巻いただけの広海が、交代だと言って嬉しそうにタッチをする。凛香は目のやり場に困りながらも意識をしっかり持って、着替えの入ったトートバッグをむんずと掴み、バスルームに逃げ込んだ。
広海がシャワーをしながら準備をしてくれたのだろう。団地サイズの小さな四角い湯船には、湯がたっぷりと入っていた。
凛香はゆっくりとその中に身を沈める。淵を握った手に顔を載せて、広海と初めて口づけを交わした大学二年のクリスマスの日を思い出していた。