57.心のままに その3
「そうか。よかったか。でも、残念だったな。もうちょっと前だったら、もっと感情をこめて生々しい演奏ができたのにな。凛香への叶わぬ想いをこの曲に重ねて、苦しい心の内を鍵盤にぶつける、そんな演奏だったのに。そしたらおまえ、こんなもんですまないぞ。もっともっと激しく号泣すること間違いなしだな。……って、もしかして、おまえをピアノで泣かせたの、初めてじゃない? マジすげえ。それではもう一曲。おまえが前に弾いてくれた作品9の1のお返しに、ショパンのノクターン作品15の2を、おまえだけに捧げる」
凛香はますます顔を上げることが不可能になった。
このノクターンは広海の十八番でもあり、学生時代に何度もねだって弾いてもらった曲なのだ。それが装飾音符だとは思えないほどの繊細なメロディーラインに何度心が震えたことか。
中間部分に左と右のリズムが数学的に合致しない難解なところがあるのだが、広海の手にかかると、何事もなかったかのようにいとも簡単になめらかに音が流れていく。
初めてその楽譜を見たときの衝撃と言ったら……。
割り切れない数字をこんなにも見事に分割して決して余りを出さない。いったい彼の脳はどんな構造になっているのか。
世界中の数学者や物理学者でも解明できないであろう音のイリュージョンを目の当たりにした時、もうそれは人間のなし得る業をとっくに越えているとしか思えないほどの表現力だった。
凛香の全身にショパンらしい心地よいメロディーが滲みこんで行く。このまま命の終焉を迎えてもいいと思えるくらい、至福の時だった。
最後の六連符がだんだん小さくなり、ゆっくりと消えていく。広海と過ごした過去が走馬灯のように蘇り、そして音と共に、今またゆっくりと消えていった。
「凛香。またいつでも弾いてやるぞ。今夜はこれくらいにしておこうか」
凛香はクッションに埋もれたまま、うんと頷いた。
「そうだな、次はリストのメフィストワルツなんかどうだろ。これもきっと気に入ると思うぞ。今すぐ弾けないこともないが、ノクターンに比べりゃ、ちと長い曲だしな。今夜はもう遅いから、また今度ということで。さあ、そろそろ飲みましょうか? お嬢さん」
グラスを持つような手格好をして、おどけながらクィっと酒を飲むマネをする。
上機嫌でピアノの部屋を出ようとする広海を追うように、凛香もその場に立ち上がった。
そして。
「広海、待って……」
凛香は呼び止めると同時に、先を歩く広海の背中にしがみついていた。
渾身の演奏の結果、広海のTシャツは汗で濡れてしまったけれど、そのすぐ向こうにある彼の背中はとても温かい。
広海から離れないように、Tシャツの袖の辺りをぎゅっと掴む。
「凛香……」
ピタッと立ち止まった広海のくぐもった声が、彼の背中に密着した凛香の耳に低く響いた。
ど、どうしよう。こんなことするつもりなどなかったのに。
凛香は咄嗟に取った自分のあまりに大胆な行動に驚くと同時に、もうどうすることも出来なかった。
凛香の一番好きな曲をこんなにも素晴らしい形で届けてくれた広海から離れたくなくて。
もちろん、泣き顔も見られたくなくて。
このまま広海の背後からぬくもりを確かめていたかっただけなのだけど。
黙ってないで、何か言って欲しかった。
暑苦しいぞとか、ふざけんなとか。さっさと離れろ、うざいんだよとか。なんならこのまま、一本背負いで決めてくれてもいいくらいだ。
凛香に亀の甲羅のように貼り付かれた広海が、そのままの姿勢でつぶやく。
「凛香。それはOKサインとみなしますが……。ホントにいいのか? 後悔するなよ」
広海が、袖を掴んでいた凛香の手を握ったかと思えば、ぐいっと引っ張られ、彼の胸元に引き寄せられる。
そして見上げた先には、目を細めてじっと凛香を見ている広海がいた。
顎の先に指をかけられ首筋がすっと伸びる。次の瞬間、広海の唇がそっと合わさり、何度も何度も啄ばまれる。
そうだった。これが広海の口付けだ。こうやって軽く唇を吸われ、徐々にしっとりと馴染んでいくのだ。
それと同時に、身体の力も抜けていく。凛香は必死で広海にしがみついた。
首に手を回し、より一層身体を密着させる。ずっと凛香の背中を撫でていた広海の手が腰に降りてくるのを合図に、そのままラグの上に二人して倒れこんだ。
その時、ピアノの脚に自分の足をぶつけた広海が、痛ってーと言って苦笑いを浮かべる。
その表情が何とも言えずかわいく思えて、胸の奥がきゅっと痛んだ。顔を歪めながらもじっと見つめる彼が愛おしく、その頬を慈しむようにそっと指でなぞる。
どうしたのだろう。もう止まったはずの涙が、また溢れ出る。ひと筋、ふた筋と、目じりを伝って、ラグの上に流れ落ちた。
好きだ。広海が好き。凛香はこんなにも広海を愛していたのだと気付き、湧き上がる想いに打ち震える。
「広海……」
「うん? なんだ」
頬に、額に、耳たぶに。小さく口付けながら、広海が訊ねる
「好き……。広海が、好きだ」
凛香から顔を離した広海が、目を丸く見開く。
「り、凛香……。俺も好きだよ。ずっと好きだった。愛してる……。だから、泣くなよ。な? もう泣くな」
広海の唇が流れ落ちる涙を拭うように、優しく凛香の頬に触れていく。そして広海の吐息が耳たぶから首すじに到達した時、凛香は纏っていた理性をすっかり手放した。