51.夫唱婦随 その1
「凛香、待てよ! それは俺が……」
凛香が財布を出す直前にレジカウンターに滑り込んできた広海は、支払いを終えた後、もうすでにコンビニから出て行った凛香を追いかけてくる。
「お、おい、待ってくれよ。なあ凛香、砂川にあんなこと言って、本当に大丈夫なのか?」
腕を掴まれた凛香はその場に立ち止まり、広海の方に振り向いた。
「あたりまえだ。私が今まで嘘をついたことがあるか? ええ? どうなんだ!」
凛香は片手を腰に当て、何か文句あるのかと言わんばかりに胸を張り、きれいなラインをした顎を気持ち前方に突き出し啖呵をきる。
「ない……」
冷えた缶ビールが透けて見えるコンビニの袋を提げながら力なくうな垂れる広海に、凛香は余裕の笑みを浮かべる。
「だろ? 言ったことは守る。砂川君のあんなに喜んでる姿を見てしまったんだし、それで約束を反故に出来る? 私、あんたと違って、そこまで悪人じゃないから。生徒のためだと思えば、なんでも出来そうな気がする」
あくまでもこの決断は生徒のためだ。広海のためではないことを凛香は自分自身にもしっかりと言い聞かせるように宣言する。
「そうか……。やっとその気になってくれたのか」
「だから、砂川君のためなら、ね」
「誰のためでもいい。凛香が歌ってくれるってだけで、俺はもう他に何もいらないよ」
「ふーーん。じゃあ、私もいらない?」
「おいおい、何言ってんだよ。それとこれとは別だろ? にしても楽しみだな。どんな楽器構成にしようか。うーん、そうだな、俺がドラムをやるとして、ギターを誰かに頼まないといけないな」
「私と広海の二人ではだめなのか?」
「別にダメじゃないけど、音に厚みが出ないぞ」
「仕方ないだろ?」
「前もって録音って手もあるけど、やっぱ生音には敵わないしな。そうだ、教頭はどうだ? 昔、有名どころのコピーバンドやってたらしいぞ」
「えっ? あの教頭が?」
凛香は初めて聞くその話に思わず首を傾げる。
「ああ。あの教頭が、だ。凛香だけでじゃなくて教頭まで担ぎ出したら、とんでもなくビッグなサプライズになると思うけど。どう?」
「そりゃあ、いいと思う。けど……。教頭が首を縦に振ると思うか? いつも忙しそうだし、どこまで実力があるかもわからない。無理だよ、きっと」
「そうか? 俺は脈ありだと思うぞ。前に教頭が言ったこと、覚えてるだろ?」
「なんだ、それ」
凛香は広海がいつの話を持ち出しているのか、全く見当がつかなかった。
教頭が前に言ったこと……。凛香はうーーんと唸りながら、記憶の糸をたぐり寄せる。
「ほら、一学期の最後の飲み会で。おまえが補習講座を断るなら自分が手伝うって、あの話し……」
「ああ、思い出した。そんなこと言ってたよなあ」
「ピアノが弾けるかどうかは知らないが、教頭は楽譜も読めるし、コードも全部理解している。俺が授業で使った曲にも時々反応してくれて、専門的なことにも踏み込んでくるぞ。ああ見えてあの教頭、結構な音楽マニアだ。クラシックにも造詣が深い。あの人なら、絶対に話しに乗ってくる」
あれほど真面目そうな顔しながら、教頭も若い時はそれなりに青春していたのだと思うと、なぜか微笑ましい気持になる。
「じゃあ、広海から教頭に頼んでみて。ということは、私がボーカルとキーボードを担当すればいいのか?」
「いや。おまえはボーカルだけでいい。ブランクも長いし、さすがに両方はキツイだろ? キーボードは誰か他の先生に頼んでみるよ。俺がキーボードで、誰かにドラムをやってもらうって手もあるからな」
広海がいとも簡単に自分の担当楽器をあれこれ唱えるが、これは口から出任せでも何でもない。広海は大概の楽器は全部そこそこにこなす。
キーボードはもちろんのこと、ギターとドラムもプロ級だ。サックスにバイオリン、大学の音楽棟の片隅に眠っていたハープまで艶やかに奏でた日には、凛香は音楽のことで広海と張り合うのだけは絶対にやめようと心に誓ったほどだった。
「でも、キーボードやってくれる人、今から見つかるのか? 夏の補習講座に誰も名乗りを上げなかったんだぞ。いないと思うけどな。ましてやドラムなんて、ますます無理だろ」
凛香は職員一人一人の顔を思い浮かべて、ピアノが弾けそうな人をピックアップしてみるものの、どれも望みが薄そうだ。いったい誰が出来ると言うのだろう。
だからこそ夏休みの補習講座は凛香が餌食になったのではないかと、苦々しく振り返る。
「いや、いるよ」
広海が自信たっぷりに頷く。
「はあ?」
どこにも根拠のないこの男の自信に満ちた態度が、滑稽にさえ思える。いるなら今すぐ見つけて来い、と言いたいのをぐっと堪えた。