50.壁に耳あり、コンビニに目あり その2
レジ担当のバイトらしき店員が時折こちらをちらちらと見ているが、声は潜めているつもりだ。迷惑はかけていないと思いたい。それに、幸い、他の客はいない。
「は、はい。もちろん、誰にも言いません。俺だってこう見えても、もう十八だし、その辺はわきまえてるつもりですから。まさか鶴本先生と鷺野先生が付き合っているだなんて……。あ、いや、けなしているわけじゃないですよ。学校ではそんな風に見えなかったから。どっちかと言えば、犬猿の仲かと思ってました」
「それも当たり。最悪な仲の悪さだった。けどまあ、急展開ってことで。大人には大人の事情があるから、ここは見逃してくれるとありがたい」
「あの……。凛香ちゃん」
森口が控えめに凛香を呼んだ。美術部の女子やクラスの生徒から、なぜかこう呼ばれている。
気持ち悪い気がしないでもないが、生徒がせっかく親しみを込めて呼んでくれるのだ。凛香は許容範囲内として、これを受け入れている。
「気を付けて下さいね。鶴本先生のファンってすっごく多いんです。美術部にも熱狂的なファンのグループがあって、誰もが先生と結婚できると思ってるんです。だから凛香ちゃん、彼女たちにはくれぐれもバレないようにした方が……」
森口が凛香を気遣う。
「わかった。そうするよ。ご親切にどうも」
そんなこと、言われなくてもわかってると言いそうになるのを我慢して、淡々と答える。
その程度の女子軍団よりさらに強烈なのが身近にいるのだ。その名も里見瑛子。彼女の執拗さに勝るものはないだろう。
何を隠そう、瑛子にこの状況を知られるのが一番怖いというのに。
「あの……。鶴本先生も、用心した方がいいですよ」
砂川が真顔で話に割り込む。
「鷺野先生のファンもすっごく多いんです。生徒会にも熱狂的なファンがいて、先生のクラスの子としょっちゅうコンタクトを取って、情報収集してますよ。鷺野先生ファンも女子が圧倒的に多いですからね」
「そうか、わかった。気をつけるよ……って、おまえにそこまで心配してもらう必要はないから。俺は大丈夫だ。それと、文化祭の件は鷺野先生を説得中なんで、もう少し待ってくれ」
高三なのに文化祭の実行委員長も引き受けて、それなりに苦労もあるのだろう。やはりこの好青年に報いてやるべきなんだろうか。凛香の心がぐらぐらと大きく揺らぐ。
「砂川君。文化祭の事だけど。鶴本先生から詳しく聞いているよ。そうだな……」
凛香は腕を組み、天井の蛍光灯を仰ぎ見る。そして頷いた。
「よしっ。力になれるよう、がんばってみるよ。君には借りができたことだしね? 実は私、学生のころにストリートでキーボード弾きながらボーカルやってたんだ。鶴本先生と組んでね。先生と相談しながらなんとか形にしてみるから、文化祭、楽しみにしてて」
「うわーー。すっげえ! いいんっすか? ほんとうにいいんっすか? やったあー。これで他の委員も安心しますよ。ありがとうございます。あの、これ、実行委員会のサプライズなんで、生徒や他の先生には口外しないようにお願いしますね」
砂川が興奮のあまり大きな声を出しすぎたため、バイトの店員がぎろっとこちらを睨む。
「しーーっ。砂川君。声が大きい」
砂川がペロッと舌を出し、恥ずかしそうに肩をすくめる。
「もちろん、誰にも言わないぞ。お互い、口外無用ってことで」
「鷺野先生、言われなくてもわかってますって。まかしといてください。それじゃあ、俺たちはこれで失礼します。……末永くお幸せに!」
末永くって、どういう意味だ……。
にしても砂川君、あんた取引うまいよ、将来大物だわ。
実行委員長のしたたかさに凛香は目を見張ったが、言われっぱなしで終わる彼女ではない。
「砂川君こそ、森口のこと頼んだぞ。いつだったかな? 夏休みに君たちが幸せそうにしてるところ、音楽室から見たんだよね。森口がキャンバスを抱えて歩いていた時……。森口、素敵な彼が出来てよかったな。いや、砂川君がよかったのかな?」
目を丸くした砂川と森口が、逃げるようにしてコンビニから出て行く。
おや、ルーズリーフは買わなくて良かったのだろうか。慌てる若い二人の後姿を見て、凛香はクスッと笑った。
いよいよ店員の視線が痛い。この辺で、とっとと店を出たほうがよさそうだ。
ピスタチオをあきらめた凛香は、早く支払いを済ませようと広海の持っているカゴを引っ張った。ところが動かないのだ。広海が。
「ちょっと、広海?」
広海はぽかんと口を開けたまま、凛香をじっと見ている。さっきの森口のように、ぴくりとも動かずに。
そして、やっと広海の口からこぼれ出た言葉は。
「おまえ、ホントにホントなのか? さっき砂川に言ったこと……。また歌ってくれるんだな。夢じゃないよな? 嘘じゃないよな? 信じていいんだな?」
凛香は放心状態の広海から力任せにカゴを奪い取り、一人さっさとレジに向かった。
その時、やっとバイトの店員の顔がほぐれ、肩の荷を降ろしほっとしたように見えた。