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そして、始まる  作者: 大平麻由理
本編
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5.男って……

 凛香は、脇目も振らず、駅に向かって走っていた。

 さっき宇治に好きだと告白された場所に差し掛かると、よりいっそうスピードを上げてそこを駆け抜け、唇をかみしめた。

 しょっぱくて鉄っぽい味覚が口の中に漂う。血の味だ。


  たった今、逃げるように飛び出してきた宇治の家は、その立派な門構えに全く見劣りしない荘厳な和風建築の屋敷だった。

 庭園と呼ぶにふさわしい手入れの行き届いた庭には、はすの葉が浮かぶ池があり、色とりどりの鯉が優雅に尾ひれを揺らめかせていた。


 家族は誰もいなかった。兄弟は社会人ですでに家を出て暮しているし、両親は親戚のところに出かけていると宇治が言った。


 凛香が通されたのは二階。二間続きの和室が宇治の部屋だった。

 明るいその部屋には片側の壁一面に絵が立てかけてあり、描きかけのものも含めると、優に五十枚以上はあったと思う。

 どれでもいいぞ、おまえの好きなのを選べと言って、重なった絵をずらして見やすく広げる。

 そして、どこかで見たことがあるような裸婦の絵に目を留める。世界的にも有名な画家の模写だ。

 いつもの大量に絵の具を盛り上げる技法はなりを潜め、印象派独特の柔らかいタッチをそのまま忠実に模写しているのだ。


 宇治はこういう描き方もできるんだと目を見張る。筆運びや、色の置き方も見事に模写していた。

 そして同じようなタッチの絵を探すべく、部屋の隅に隠すように置いてあった一枚に手を伸ばした。

 重なった前の絵の後方から全体が現れた瞬間、凛香は言葉を失った。


 そこにいた絵筆を握る女性は……。


 見慣れた制服をまとい、キャンバスに向かうその人物は、紛れもなく凛香自身だったのだ。

 でも、それだけはだめだ、他のにしてくれと言って、宇治の手によってその絵は元の場所に押し戻される。


 そして凛香に向き合った宇治がとんでもないことを口にする。

 ゆっくりとブラウスのボタンに手を掛けながら……。


 次の瞬間、凛香の振り上げた右手が彼の頬を打ち、即座にカバンを手すると二階から脱兎のごとく駆け下りる。

 庭を通り抜けた時、背中で鯉が跳ねる音を聞いた。


 宇治の目が、欲情する男のそれだと本能的に感じ取り、身の危険を感じた凛香は、脳の指令を待たずして逃げるという行動に出たのだ。


 おまえのヌードが描きたい。だから、協力してくれないか……。


 宇治のその時のじっとりとした視線と、震えるように裏返った声が何度もフラッシュバックする。

 凛香は宇治の要望を拒絶したことは決して間違っていなかったと自分自身に何度も言い聞かせた。

 あの時、宇治の言うままになっていたなら、モデルだけでは済まない事くらい、凛香にも充分理解できた。

 相手への愛が見えないまま抱かれることなど、あってはならないことだから。

 次の日、何事もなかったかのような顔をして部室に現れた宇治に、きっぱりと交際できないと断りを入れたのは、当然の成り行きだった。


 そんな苦い思い出のある高校時代だったが、今となってはそれもいい経験だったと思えるようになった。

 何もいきなり殴らなくても、それは出来ません、服を着たままでならモデルになりますとはっきり言えばよかったのかもしれない。

 宇治は決して無理強いをするような男ではなかった、はずだ。

 それにしても……。絵をもらいそこねたことだけは失敗だったと、凛香は短気で世間知らずの自分を悔やむのだった。



 窓の下を見ると、さっきまでいたあの二人がもうどこにもいないことに気付く。

 凛香はあわてて、ちょうどシューマンの肖像画の真上にある時計に目をやった。

 あれから十五分も経っているではないか。なのに、次に約束している生徒が来ないのはどういうわけなのだろう。

 凛香のイライラはピークに達してくる。


 美術教師なのに、どうしてこんな畑違いの仕事に首を突っ込まなければならないのだろうと、自分の置かれた立場を悔やむ。

 なぜ最初に、ピアノの指導など出来ないと断らなかったのだろう。

 凛香の顔が後悔の念で次第に歪んでくる。他人の目にどう映ろうがかまわないが、とにかく音楽室に拘留されるようになった理由を考えるだけで、頭痛が起きるくらい不快になるのだ。

 それもこれもすべて生徒のためだと思うことで、なんとか自分を騙し今日まで続けて来たのだが、そろそろ限界に近付いている。


 凛香がこの仕事を任された原因は……。

 彼女の最も隠しておきたい過去の汚点をしっかり握りこんで、脅迫まがいにそれをちらつかせ、俺様を気取る男。つまり、この音楽室の主でもある、男性教諭の仕業なのだ。

 凛香は子どもの頃に、数年間ピアノを習ったことがあったが、基本基本とうるさいピアノ教師が、いつまでたってもあこがれのシューマンやショパンの曲を弾かせてくれなかったため、積み重なった恨みが爆発して、暴言を吐いてレッスンを辞めたという苦々しい過去がある。


 今になれば基礎の大切さも理解できる。生徒としてあるまじき態度を取ってしまったことも反省している。

 ただし、子どものやる気を頭ごなしに否定するその指導法には今でも納得がいかない。

 その後凛香は二度とどの指導者にもつくことはなく、自分で曲を紐解き、シューマンもショパンもそれなりに弾けるようにはなった。

 あくまでも趣味の域を出ない程度のレベルでしかないが。

 なのに、あいつときたら……。

 これが凛香の隠しておきたい過去の汚点……ではない。

 こんな物、今まで彼女が巻き起こしてきた数々の珍事の中では、ねずみの耳垢ほどの出来事でしかない。


 一向に生徒は姿を見せない。やはり凛香の指導が厳しすぎるのだろうか。

 凛香は自分の過去の経験を生かし、生徒の意思は十分に尊重して指導してきたつもりだった。

 ところが残念なことに、昨日も一人、脱落者が出てしまったのだ。


 家に鍵盤楽器がない場合、補習講座が開かれていない時間帯に音楽室と準備室のピアノやキーボードを自由に使ってもいいと言っているにもかかわらず、全く課題を練習してこない生徒に注意したところ、もう辞めますと言ってあっという間にここから出て行ったのだ。

 追いかけて引き止めてもだめだった。

 結果、ここの主には、辞めたのはさもおまえのせいだと言わんばかりに非難され、生徒の担任にも文句を言われと散々な目に遭った。


 本日はもう店じまいだ。凛香がピアノの蓋をパタンと閉めたと同時に、ドアをノックする音が聞こえた。

 何と言うタイミングの悪さ。再びピアノの蓋を開け、入りなさいと凛香のよく通るアルトがドアに向かって放たれる。

 やや顔を引き攣らせた人のよさそうな男子生徒が音楽室のドアを開けて立ち止まり、遅れてすみませんと言って頭を下げた。

 凛香は仁王立ちになり、いつものくせでポキポキと指を鳴らし気合を入れ直す。


「遅かったな。遅れるときは連絡を入れるように。では、弾いてもらいましょうか……」


 バイエルを抱えて縮こまっている生徒が、ますます凛香の隣で小さく身体をすぼめた。


 


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