49.壁に耳あり、コンビニに目あり その1
「せんせい、それが、その……。今、予備校の帰りなんです。あそこの角のところの……」
砂川が窓ガラス越しに指をさす。そこには大手予備校の看板がライトアップされて輝いているのがくっきりと見えた。
現役大学受験コースに通っていて、今が帰りだと言う。
「そうか。勉強がんばっているんだな。それで、君は?」
いつもの気迫をどこかに置き去りにしたような弱腰の広海が森口に訊ねる。
森口は三年生だが、一年、二年と美術を選択していたので、広海は彼女を知らないのだろう。
「わたしも、そ、その。砂川君と、同じ予備校に通ってて。えっと、ルーズリーフがなくなったので、ここにあるかな、と思って……」
余程緊張しているのだろう。今にも倒れそうになりながら小柄な森口が一生懸命、ここにいる理由を弁明をしている。
「よし、わかった。さっさと用を済ませて、帰れ。なあ、砂川。おまえたち、家は近いのか? よければ俺が家まで送るぞ」
必死に平静を装っている広海が、さりげなくそんなことを言い出す。あくまでもさりげなく、だ。
「あ、いえ。大丈夫です。ここから近いんで。俺、責任持って、こいつを送って行きますんで。大丈夫です」
「そうか? 遠慮はいらんぞ。夏の夜は物騒だからな」
広海はとにかく、夜遅くコンビニを徘徊している学生を指導保護する立場を全面に出して、話の趣旨をはぐらかそうとしているのが見え見えだったが。
「先生。ありがとうございます。でも、そ、その。お二人を邪魔しちゃ、悪いんで」
「はあ?」
生徒の方が上手だった。広海の姑息な手段など、とっくにお見通しということだ。
「あっ、いや、何でもないです。ただ先生があまりにも、その……」
急に頬を赤らめた砂川が頭をかきながら、何か言いたげに広海の様子を伺う。
「なんだ、砂川。言いたいことがあるならさっさと言えよ」
広海が少しイラつき始めている。早くこの場を収めたくて口走ってしまったのだろうが、ますます雲行きが怪しくなってくる。自分の首を絞めていることに気付かない広海が哀れだ。
「あ、はい。あの、どこかで聞いたことがある声が、突然隣の陳列棚の方から聞こえてきて。夜明けのコーヒーがどうのとか、うで、うで、ううう腕枕をするだとか、ピスタチオがどこだとか……。その知ってる声の人が誰か女の人と話してる様子だったんで、やっぱり知らない人だったのかなと思って。でもよく聞くと、女の人の声も聞いたことがあるような気がする、なんて思っていたら、急に森口の様子が変になったんです。覗きに来てみれば、なんとそこには、鶴本先生と鷺野先生がいたというわけで。す、すみません。先生たちの話、全部聞いてしまいました」
「砂川、お、おまえ……。あ、いや。別に聞かれてまずいことは、その、言ってないと思うが……って、言ってたか?」
顔を引き攣らせながら広海が凛香に訊ねる。次第に落ち着きを取り戻してきた凛香は、さあ? と首を振ってみせた。たまにはあわてふためく広海を見るのもいいものだ。
夜明けのコーヒーも腕枕も、高三の二人なら充分すぎるくらい理解できる内容だ。
凛香と広海がそういった大人の関係であるとしっかり誤解してしまったことはもう間違いない。
「どっちにしろ、その、あれだな。別に砂川たちのことを邪魔だなんて思ってないからな。いつでも家まで送ってやるから。でもな、今夜鷺野先生と一緒にいるのには、わけがあるんだ。前におまえに頼まれてただろ? 文化祭の出し物のことだ」
「あ、はい。あのことですね」
「そうだ。ということで、鷺野先生にもいろいろと相談しないといけないからな。今から二人で話し合いを始めると、何時に終わるかわからないだろ? だから、朝メシの心配もだなあ、その、必要じゃないかと……。それに腕枕? いやいや、腕相撲の聞き間違いだろう。だから気にするな。とまあ、そういうことで」
完全にしどろもどろになっている。夜中に男女二人が腕相撲とか、余計に怪しすぎるだろうと思うのだが。
しっかりしてくれよと、凛香は広海に励ましの視線を送る。すると彼が助けてくれと言わんばかりの情けない目をこちらに向けてくる。
広海の虚勢も、これが限界ということなのだろう。
ついさっきまで、デレデレとまとわりついていたのは、どこのどいつだと言いたいのをぐっと堪え、凛香はあえて広海にぺったりと寄り添うようにして横に並んで立ち、砂川を真っ直ぐに見据えた。
「砂川君。君が文化祭の実行委員長だったんだな」
「あっ、はい。そうです」
「今、鶴本先生が言ったことも、一部を除いて間違いじゃないが。まあ、見ての通りということで。今夜のことは、あんまりみんなに公言しないでくれる? 君ももう高三なんだし、その辺のところ、わかるよね?」
凛香は低く落ち着いた声で、砂川に言い聞かせるように話した。