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そして、始まる  作者: 大平麻由理
本編
42/91

42.もう絶対に離さない その2

「さ、これでオッケー! これしきのことで慌てるな。簡単取り扱い説明書ってやつをノートパソコンのそばにおいておけ。で、今俺がマーカーでチェックしたところを、そのとおりにやればいいんだ。な? 簡単だろ?」


 広海が我が物顔でつかつかと中に入り込み、中腰のままいくつかのキーをちょちょっと押さえて、あっという間に固まった画面を修復する。

 何事も無かったかのように、いつものトップページが画面に浮かび上がった。


「あ、ありがとう。助かった」


 凛香は無事元に戻ったパソコンの前に座り、横で満足そうな笑みを浮かべる出張修理マンにとりあえず礼を言った。


「いえいえ、どういたしまして」

「お礼はコーヒーしかないけど。酒類は無理だよな。車なんだろ?」

「ああ。それより凛香。あなたさまは、シューマンを検索されていましたが……。よければ、私どもが続きをお調べしましょうか?」


 広海の妙にへりくだった物言いが、癇に障る。パソコンを直してやったぞ的な、ドヤ顔が見え隠れするのは気のせいだろうか。


「いいよ。後で調べるから……」


 凛香はそっけなく返事をしながら、しまったと心の中でつぶやく。あの画面のままフリーズしたので、検索欄のシューマンの文字を広海にバッチリ見られてしまったのだ。

 不覚だった。まるで、家の中でも広海のことばかり気になって仕方ないみたいに思われなかっただろうか。 

 今ここでシューマンについて調べて、広海にしたり顔でもされようものなら……。

 凛香のプライドはずたずただ。こういうものは、あとでこっそり調べるに限る。


「おまえさあ。あのこと、知りたいんだろ?」


 立ったままの広海がにやにやしながら、椅子に座った凛香を見下ろす。


「べ、別に」


 凛香は出来る限り平静を装って、画面にわざとらしく風紀関連のプリント文面を呼び出し、そ知らぬふりを続ける。


「またまたそんなこと言っちゃって。ホントに素直じゃないな。ほら、ちょっとどいてみ」

「えっ、あっ、な、なんだよ!」

「シューマン、クライスレリアーナ……っと。これでどうだ!」


 椅子から放り出された凛香は、広海の指がキーの上をすべるように走っていく様子に目を奪われていた。

 男性にしては細くてきれいな指が、まるでピアノの鍵盤を操るかのように、なめらかで無駄のない動きを見せた瞬間でもあった。


「おっ! いろいろヒットしたな。うーん、これがいいかな? まあ、読めよ」


 画面にはシューマンの肖像画と、クライスレリアーナの説明が記されていた。広海と場所を入れ替わるようにして、今度は凛香がパソコンの前に陣取る。


「シューマンはクララとの恋愛がまだ成就してない頃、自分の恋の苦しみを、ホフマンのこの同名の悲恋の物語に重ね合わせ作曲したと言われている……」


 悲恋の物語? クライスレリアーナが? 

 クララというのはシューマンの奥さんだ。そこには、シューマンが奥さんを振り向かせるためにいろいろ苦労したということが、つらつらと書かれていた。

 あのような大作曲家であっても、恋愛には悩まされたのだなと思うと、親しみを感じてしまう。

 画家は絵でそれを表現し、小説家は文章で著す。舞踏家はダンスで、歌手は歌で。

 様々な手段を用いて、叶わぬ恋を伝え訴えてきたのだろう。


「ははは……。どうだ。俺もいっぱしに、おまえに苦悩し続けてきたからな。でも、もう俺のクララは、どこへもいかないだろ? なあ、凛香?」


 広海はこれまで、シューマンと自分の心情を重ね合わせて、クライスレリアーナを弾いていたとでも言うのだろうか?

 そんなロマンチックな男だなんて、全くもって信じられない。凛香が広海と決別してからも、他の女性との噂が絶えなかったはずだが。

 たまたま職場で再会して、なつかしさを恋心と履き違えているにすぎないと思っているのは誤りだとでも?

 白々しさにもほどがある。大声であざ笑ってやろうと思ったのに。

 どういうわけか、胸がじりじりと痛むのだ。

 広海がそんなに思い悩むほど自分が女として値打ちがあるなどと、凛香には到底思えないからだ。

 広海には、もっとふさわしい人がいるはずだ。なのに、どうして……。

 過去にあんな別れ方をしたにもかかわらず、倒れた凛香を誠心誠意看病してくれたあの日も。

 そして、過去の男のネックレスをつけていることに本気で嫉妬して、代わりの物を贈ってくれたことも。

 そのどれもが、広海の真剣な気持の表れなのだとしたら。

 凛香は、胸元のダイヤにそっと手を当て、締め付けられる胸の痛みが治まるのを待った。


 その時、背中にふわっと風が当たったような気がして、後を振り返ろうとしたのだが。すぐ真横に広海の顔が現れて、椅子の背もたれごしに後から彼が抱きついているのがわかった。

 始めはそっと柔らかく。そしていつの間にか、身動きも出来ないくらい、強く抱きしめられていた。


「なあ凛香。俺の気持ちは、もうわかってるだろ?」


 首筋にかかる広海の吐息が熱い。


「ちょ、ちょっと、広海。何を……」

「いいから。じっとしてろよ。今回はおまえになんと言われようが、離れるつもりはないからな。もう絶対に離さない」

「広海……」


 凛香は急に早鐘を打ち始める自分の心音を、身体中で感じていた。




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