41.もう絶対に離さない その1
「もしもし……。広海?」
『はあ? 誰? あっ、ああ……。凛香か。ごめん、俺だ』
携帯に相手の名前くらい表示されるだろうに。誰であるかを確かめもせず電話に出る広海に、あきれて物も言えない。
『どうした、凛香。やっぱり焼き鳥食わせろとか、今ごろになって言うなよ。おまえに振られっぱなしの寂しい俺は、あれからコンビニに寄って、カップラーメンを二つ買ってだなあ。それ食って、酒を飲むのもやめて。おりこうにピアノを弾いていたんだが。それにしてもおまえ、冷たすぎるぞ。せっかくうめえ焼き鳥食いに行こって誘ってやったのに、なんで……』
意外にもすぐに電話に出てくれたまではよかったのだが、その後の話は余計だ。くどくどと、うるさいことこの上ない。
「パソコン、壊れた」
とにかく広海のオンステージを途中で遮断することに意識を集中する。ほんの少し話しが途切れた隙を狙って用件を簡潔に述べる。
『なんで行かないって断るんだよ……って、ええ? 何だって? 壊れたのか? パソコン、が?』
「うん。おかしくなった。画面がフリーズしてる……」
『おまえ、パソコン殴って壊したんじゃないだろうな?」
「んなわけないだろっ! って、ちょっとは、その。殴ったけど……。でも、そんな壊れ方じゃないから。ああ、だからいつも言ってるんだ。パソコンなんて大嫌だってな。なんですぐにフリーズするんだよ。広海が自分で検索して調べろって言うから、こんなことになったんだ! あんたのせいだ!」
凛香は理不尽な怒りをぶつけるべく、腹ばいになったまま握りこぶしで床の上をゴンと叩いた。
『おまえのパソコンが壊れたの、俺のせいだって? やってらんねえな。頭脳明晰、手先チョー器用な俺様が遠隔操作でおまえのパソコンをぶっ壊したとでも? んなことあるわけないだろーが。ったく、しょうがないな。なら、強制終了してみ。主電源ブチって切って』
「そんなことして、もっと壊れて、二度と電源が入らなくなったらどうしてくれる?」
『ごちゃごちゃ言うな。そんじゃあCtrlキィーとAltと……』
「あああああっ! 難しいこと言うなよ! そんなもの押さえて、どうしろって言うんだ!」
『わかった。わかった。ほんっとに情けない奴だな。じゃあ、そのまま待ってろ。今からそっちに行くから』
「……って、来るな! 来なくていい! おい、広海? こらっ! 返事しろよ!」
切れてる。電話……。
広海の返事はそれっきり途絶えてしまった。
凛香は仕方なく相手を見失った携帯を切り、むっくりと起き上がった。そして物に埋めつくされたフローリングの床をまじまじと見渡して、あきれたようにため息をつく。
これはひどい。たとえその景色に免疫のある広海といえども、この部屋に通すわけにはいかない。
ならば……。パソコンを抱えて、マンションのエントランスに待機して待ち伏せするのはどうだろう。
住民に不審な目で見られたとしても、この際、目をつぶるとして。
でも、いくら近いといっても、ここに来るまでには十分以上はかかるはずだ。着替える必用もあるだろうし、戸締りやら、車のキーはどこだっけと室内をあちこち探し回る時間も必要だ。
今のうちにささっと床を片付けて、広海を出迎えるという選択肢もある。
ただし、ささっと片付けたものをどこに置くのかがまたもや問題になる。リビングもクローゼットも、我が家にはそんなゆとりはもうどこにもない。
しかしよく考えてみれば、広海はパソコンを修理しに来るだけなのだ。この部屋が散らかっていようがいまいが、彼には関係ない。
パソコンが直るのなら、この部屋を見られることくらい、別にかまわないじゃないか。
凛香はそうと決めたら急に元気になり、すくっと立ち上がって、湯を沸かすためキッチンに向かった。
えっと、コーヒーはどこだっけと戸棚を物色していると、無情にもインターホンが鳴り、来客を告げるのだ。
な、なんと。広海だった。いくらなんでも早すぎるのではないか。
凛香は計算違いをしていたことにはたと気付いた。広海にかぎって、車のキーを探し回る時間など、全く必要ないということに……。
彼の整理整頓の行き届いた部屋では、車のキーすらもオブジェのように、どこぞのクリスタルガラスの置物と一緒に並べられているはずだ。
凛香は、とんでもなく早く着きすぎたその来客のためにオートロックを解除し、玄関ドアの前に力なくたたずむ。
ドアを開けて入ってきたのは。Tシャツにハーフパンツ姿でにっと笑ってみせる、昔のままの広海だった。