38.ありがとう その4
凛香は広海に言われた夜のことを思い出し、ふふっと小さく笑った。すると来栖が不思議そうな顔をしてこっちを見ていた。
「鶴本が、そんなことを言ったのか? そうか……。かりんちゃん、やっぱり鶴本と……」
「あっ、いや、そうじゃなくて。ただ、私の体調が悪くて、学校で倒れた時があって。その時に、ちょっとそういう話になって。私が先生のプロポーズを断ったあと、どっちつかずの態度でいたと話したものだから……」
ついでに広海に告白されて、抱きしめられただなんて、口が裂けても言えない。勝手に見合いをした来栖と同罪か、それ以上の大罪になってしまうではないか。
「わかってるよ。君が僕に対して常に誠実であってくれたってことはね。それより体調の方は大丈夫? 貧血ぎみだったからね」
「あ、うん、大丈夫だ。暑さと疲れで、ちょっと体調を崩してしまって。このとおり、もうすっかり治った」
「そうか、それならよかった。けど鶴本にはまいったな。君が僕のところに行かないって、絶対的な自信があったんだろうな。その証拠に、君は今、僕に別れを告げに来た」
「うん……」
「かりんちゃん」
来栖がこっちを見る。その眼差しは凛香にとって、痛いほどに真っ直ぐなものだった。
「な、何?」
あまりにも揺ぎ無い視線に、凛香はたじろぐ。
「ありがとう。今日まで、本当に、ありが……とう」
来栖が精一杯の笑みを浮かべてそう言った。
「あ、ああ……。こちらこそ、ありがとう」
凛香は心から素直にありがとうの言葉が言えたと思った。本当にこれで最後だと言うのに、涙が零れ落ちることもなかった。
来栖も泣いてはいなかったが。その声は震えていて、涙を堪えているようにも見えた。
店を出ると来栖が車で家まで送ろうと申し出てくれたのだが、もちろん凛香はお気遣いなくと言って首を横に振った。来栖の隣のシートは、もう凛香の場所ではないのだから。
じゃあと軽く手を上げてそれぞれの方向に歩き出したのを最後に、一度も振り返ることはなかった。
電車の中でも、マンションまでの道中でも、寂しさは一切感じなかった。こんなことなら、もっと早く話をするべきだったと思うほどに、あっけない幕切れだったと思ったのだが。
部屋に入って化粧を落とし、シャワーを済ませて、着替えて、明日の仕事の用意をして、雑誌を読んで……。
ベッドに入ったとたん、ぎゅうっと胸が締め付けられるように苦しくなり、目の奥が熱くなって得体の知れない悲しみの塊りがじわっと込み上げてくる。
必死にこらえても、それは押し留めることが出来なくて、枕に埋めた顔から嗚咽が漏れる。
人は別れを選ぶとき、皆こうやって一人で哀しみに耐えるのだろうか。こんなに辛いことはもう二度とごめんだと思った。勝手な願いだが、ここに広海がいてくれれば哀しみも半分になるのにとも思う。
来栖の笑顔も彼のぬくもりも、すべて失ってしまった。けれどそれは自分が選び取ったこと。彼との結婚に踏み切れなかった自分が出した答えだ。
凛香は絶え間なく溢れてくる涙で濡れていく枕を抱きしめ、そのまま朝まで来栖との思い出に浸り泣き続けた。
鎖状のアクセサリーの残骸を握り締め、またパソコンデスクの上にそっともどした。
来栖と別れてからもう一週間ほど経過した。あれ以来、凛香は来栖を思って泣くことはなかった。あの時に流した涙と共に、来栖との思い出はもう完全にふっきれたのだと思う。
パソコンの画面を眺めながら、凛香はハッと我に返る。そうだ、忘れるところだった。広海の思わせぶりなシューマンの話を調べようと思っていたのだ。
広海ときたら、凛香を見下したような傲慢な態度で、知りたかったら自分で調べろなどと言い放った。
そして何度訊いても、心をこめてクライスレリアーナが弾けなくなった理由とやらを教えてくれなかったのだ。
別に知ったところでどうなるわけでもないが、知らないままというのも悔しい。
検索の枠内にシューマンと打ち込んで、隣のボタンをクリックした。ところがいくら待っても何も変化がない、というかマウスの手ごたえがない。
気を取り直して、もう一度同じところをクリックしてみる。が、やはり画面は固まったままで、何の変化も起きない。そしてとうとう、何やら怪しげなモーター音までもが手元のパソコンから鳴り響き始める。送風のファンが唸っているのかもしれない。
ということは、もしかしてこれは、フリーズ?
凛香は罪のないキーボードを、破壊しない程度に加減してパシッとたたき、椅子からずり落ちるようにして散らかった床の上にゴロンと寝ころがった。
まただ。すぐにご機嫌斜めになるこのパソコンが憎い。買い換えてまだ二年目なのに、どうしてこうも頻繁に不具合が起こるのだろう。理解に苦しむ。
検索枠に置き去りにされたままのシューマンの文字が、まるであざ笑うかのように凛香を上から見下ろしていた。