33.そして、始まる その1
「見合い……」
凛香は力なくそうつぶやいたあと、まばたきもせず、目の前にある二杯目の琥珀色の液体をじっと見つめていた。
見合いとは。それはつまり、結婚を前提とした男女の出会いの儀式のことだ。凛香とて、ここ数年、実家に帰るたびにその手の話を親から幾度となく聞かされていた。
客間のマホガニーのテーブルの上には、仰々しい台紙に貼り付けられたどこの誰とも知らぬ男性の写真が積み重なっていたのを思い出す。
来栖が見合い……。
凛香は今日まで、全くその事実を知らなかったのだ。
「来栖さん、何度も見合いをさせらたみたいでな。もちろんそれは、親を納得させるために形だけのものだったらしいが、この春に会った女性と、どういうわけか意気投合したらしくて……。かりんとのことも、まだきちんとしてないのに、とんでもないことをしてしまったって、自分を責めてたぞ」
凛香は黙って広海の話を聞いていた。親思いの来栖であればこそ、形だけの見合いもやりかねない。充分にあり得ることだ。
「まあ、俺は……。来栖さんの言う通り、とんでもないことやっちまったなって思ったよ。でもまさか、まだおまえに言ってなかったとはな。だからと言って、俺が来栖さんを責められないのは、おまえだってわかってるだろ?」
頭では理解しているつもりだが、それは事実に直面するまでのこと。実際付き合っていると聞いた今、凛香の心は張り裂けそうに痛む。
「来栖さんの親父さんは八十近いんだ。最初は親孝行のつもりで、しぶしぶ見合いに臨んだんだと思う」
凛香は一度だけ来栖の両親に会ったことがあった。父親は温厚で優しそうな人だった。一人息子の来栖を、まるで孫を見るような慈しむ目で見ていたのを思い出す。
高齢で来栖を生んだと言っていた母親も、その時すでに七十歳を越えていたはずだ。
「凛香。こんなこと言いたかないが、あきらめろ。あきらめて来栖さんを自由にしてやれよ。俺さ、おまえにかなりひどいことを言ってるって思うよ。でもな、おまえが結婚を断った時点で、流れが変ってしまったんだよ。……それでもまだ、来栖さんが好きなのか?」
凛香ははっとして、横にいる広海を見た。
「こんなこと、おまえに訊いてどうするんだって話だが。でも大事なことだろ? どうしようもなく来栖さんが好きならば。俺だっておまえの力になってやりたいと思うさ。今ならぎりぎり、そう言ってやれるよ。今なら……な」
「広海……。わたし、わたし。来栖が、やっぱり好きだ。こんなになっても、まだ好きなんだ。広海、ごめん」
冗談であるにしても、広海が凛香を思ってくれているのは伝わってくる。やり直そうとまで言ってくれた人に向かって、ここまで言うのは、凛香も心苦しかったのだ。
「そうか。好きなのか……。まいったなあ」
広海が両腕を頭の後ろに回し、ソファの背もたれに倒れこむ。
「なあ、凛香。何度も言うけどさ。どうしても、あきらめられない? 俺が来栖さんの代わりになることは、無理なのか?」
「ひ、広海! なんてこと言うんだよ。広海は広海だろ? 来栖の代わりになんかなれないに決まってる。私は絶対にあきらめないから。そんな女なんか、来栖のそばからつまみ出してやる」
まだ来栖本人から直接聞いたわけではないのだ。本当のことかどうかもわからない状況で、そう簡単にあきらめるなんて出来るわけがない。
どうしてあの時、来栖のプロポーズを断ったのだろうと、凛香は今ごろになって悔やんでいる自分に気付く。
待ってくれると言った彼の言葉を信じて、甘えていた自分が今となっては許せない。
じゃあなぜ、結婚しないと決めた時にきっぱりと別れなかったのだろう。
彼を傷つけたくなくて、自分も傷つきたくなくて……。時が二人のわだかまりを解決してくれるとでも思っていたのだろうか。
結局、凛香のうやむやな態度が、ますますお互いを傷つける結果になってしまったではないか。
「ねえ、広海……。今からでも、来栖とやり直せると思う? せっかくのプロポーズを、あんな風に断ってしまった私が悪かったって言えば、許してくれるかな? そんな女のことなんか忘れて、私のところに帰って来てって言えば、また元通りになれる? ねえ、教えてよ。広海、教えて!」
凛香はこっちを見ようとしない広海の身体を激しく揺すぶり、答えを待った。
その昔、この目の前の男の元を去った時、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓って、来栖との恋愛に向き合ってきたつもりだった。なのに、またもや、凛香の手から大切なものが零れ落ちようとしている。
「凛香、落ち着けよ」
ソファにもたれていた広海が、ゆっくりと起き上がった。
「厳しいことを言うけど……。来栖さんとは、もう元にはもどらないと思う。だっておまえ、来栖さんに自分を全部さらけ出すのが嫌なんだろ?」
「あっ……」
凛香は呻くような声を漏らし、広海を掴んでいた手を離した。