32.終焉の気配 その3
確かに凛香は来栖に結婚を迫られたことがあった。別の勤務先になるなら結婚しても仕事に支障はないからと、すぐに決断を迫られたのだ。
年齢的にも身を固めるのにはちょうどいいタイミングだったのかもしれない。
結婚を機に、家庭に入って専業主婦になれと言われたわけでもなかった。仕事は続けてお互いのことはあまり干渉しないでやっていこうとも言ってくれた。
二十七歳という凛香の年齢や来栖の真面目な性格を考えてもこの結婚話に異論はないはずだった。
でも、踏み切れなかった。まだやり残したことがあるような気がして、プロポーズを断ってしまったのだ。
彼が嫌いだとか、別れたいとか。そういうのではなかった。ただ、結婚だけは違うような気がしたのだ。
まさか断られるとは思ってもいなかったのだろう。来栖はその後も何度も凛香をくどき続け、プロポーズを繰り返したのだが、凛香の意志が揺らぐことはなかった。
そんな凛香にも、変わらず来栖は優しかった。凛香がその気になるまで待つと言ってくれたのだ。
そして半年が過ぎ、一年経っても……。やはり結婚する気にはならなかった。たまに会ってお互いの近況を話し合う。それだけで充分幸せだったのだ。
けれど、もし子供を授かっていたなら話は違ったのかもしれない。ルーズになった時もあったが、ついにコウノトリは振り向いてくれなかったのだ。
「おまえに結婚を断られた時、来栖さん、かなり落ち込んでたからな」
「知ってる。悪かったと思ってる」
「初めは、なんで凛香が来栖さんの求婚を断ったのか、不思議で仕方なかったけどな。でも考えてみたら……。昔からおまえって、枠にはめられるのが大嫌いだったもんな」
「……うん。まあな。家事もあまり得意じゃないし、そもそも結婚そのものに憧れも持っていなかった。でも来栖とは、ずっと一緒にいたいと思ってた。別れるなんて、これっぽっちも考えたことなかった」
「それなのに、断ったんだ。女心はわからん。永遠の謎だな」
腕を組んだ広海が、さも不思議そうに首を横に振った。
「ああ。私もそう思う……。断った理由をなんて説明したらいいのか。今でもよくわからないけど、生活も含めて何もかも来栖と一緒にというのは、どこか違和感があって。そんなにべったりと暮らしたら、自分の心の奥まで覗かれそうな気がして、臆病になっていたのかもしれない。だから私のマンションにも、一度も入ってもらったことがないんだ。広海ならわかるだろ?」
決して不潔にしているわけではなかったのだが、どうにもこうにも、整理整頓というたぐいの能力が生まれつき凛香には欠如しているのか、部屋の中がすぐに散らかってしまうのだ。
描きかけの絵から、雑誌類の気になる部分を切り抜いたものも、あちこちに散らばっている。
はたまた授業で使えそうな廃材や空容器まで、床を埋め尽くすほどのモノが常に散乱している状態なのだ。
いくらなんでも、これを見れば、誰だって百年の恋も冷めてしまうだろう。
「全くもって、おまえらしいよ。昔はよく掃除してやったよな。どうせ、散らかり放題で誰も呼べないんだろ? 美術専攻してる奴って美的センスにも溢れてるだろうから、初めておまえんちに行く時、ちょっとわくわくしてたんだぜ。でも、あれだもんな……。まあ、創作する分には、あれくらいの空間の方がインスピレーションが湧いて、逆にいいのかもしれないけど。じゃあ、あれか? あの部屋を知ってるのは、俺だけ?」
「そうだよ。後にも先にも広海だけだ。だって、あんたの借りてた防音完備のマンション、大学から遠すぎただろ? 私の家の方が駅前にも近くて便利だったからな。あんたなら悪い人じゃなさそうだし、寛大な気持で入室を許可していたんだ」
「それはそれはどーも。こんな俺を入室許可してくれて、光栄だな。だからと言っちゃなんだけど。おまえの部屋を使わせてもらうお礼を兼ねて、いつも掃除してやってたんだよな。布団も干してやったし、台所も磨いてやった。ボタン付けもしてやったよな……」
「はいはい、そうでした。たすかりました。そのごおんはいっしょうわすれません」
凛香の口から棒読み的な謝辞が告げられる。
フローリングの床も手入れしてくれたし、照明器具の電球も取り替えてくれた。広海の家事能力の高さにケチをつけるつもりはないが、何もそこまで恩着せがましく言わなくてもと思う。
ところが広海の顔が突然生気を失くしたかのように曇る。あまりにもそっけない謝礼の言葉に気を悪くしたのだろうか? もっと気持ちを込めて礼を言えとでも?
「広海?」
凛香は広海の顔色を窺いながら遠慮がちに彼の名を呼んだ。
すると、広海がそれと同時にどさっとソファにもたれかかり、目をつぶって大きく息を吐き出す。
天井を見上げる格好になった首のまん中で、喉仏が大きく上下するのが見えた。
「……来栖さん、見合いしたんだ。おまえに結婚を断られてすぐに」
「見合い?」
「ああ。来栖さんの親が、勝手に動き出したらしい」