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そして、始まる  作者: 大平麻由理
本編
25/91

25.出会いは突然に その2

 今からもう十年近くも前になるだろうか。大学一年の夏を迎えた頃、凛香は軽音楽サークルを辞めたにもかかわらず、一人暮らしを始めたばかりの部屋にポツンと置いてあるキーボードを弾きながら歌っていることが多かった。

 あのボーカルの声が忘れられなかったのだ。

 歌うことがこんなに気持ちのいいものだなんて、思ってもみなかった。

 次第に心がほぐれてゆき、優しい気持ちになっていく自分が嬉しくもあった。

 そしてとうとう、その年の秋が深まった頃、凛香がたった一人でストリートミュージシャンまがいのことまでやってしまうことになるだなんて、誰が想像しただろう。

 一度やるともうやめられない。ストリートの魅力にどっぷりとはまっていく自分を、凛香はもう止めることが出来なかった。 


 凛香が歌っていた場所は、大学に程近い駅前広場の一角だった。もうすでに何組もの人たちがそれぞれのパフォーマンスを繰り広げていたので、比較的もぐりこみやすかった。

 ギターをかき鳴らして、一人で歌う者。五人組みのロックバンドや、バックミュージックなしで、アカペラを朗々と歌いこなすつわものまで、それはそれは様々な音楽好きな若者がそこに集い、表現を楽しんでいたのだ。

 演奏を聴きながら、ダンスをする人もいる。どこかのグリークラブの声量の豊かさにも驚かされた。彼らのクリスマスソングは今振り返ってみても絶品だったと思う。

 まさしくそこは自由空間そのもので、道行く人もふと足を止め、老若男女を問わず笑顔になり、同じ音を共有する喜びにほんのひと時だけ浸っていく……。そんな場所だった。

 黒いレザーのキャリーバックにキーボードとスタンドを詰めて、賑やかで人通りの多い一等地からは少し奥まったベンチの側で見よう見まねで始めた自分だけのオリジナルコンサート。

 どんな機材が必要かもわからないまま、とにかくキーボードに新品の単一電池六コを装備し、予備の電池もバックに補充して、いそいそと現地に出向く。

 マイクはないので、キーボードの音量を絞り声を張り上げ気味にして、おっかなびっくり、凛香のたった一人だけのステージが幕を開ける。

 もちろん聴いてくれる人どころか、立ち止まる人もいない。オリジナル曲も悲しいかな二つしかないため、たとえ耳を傾けてくれる人がいたとしても、この二曲がエンドレスでは、すぐに飽きられる。

 昼間、大学の講義中にノートに歌詞を書きとめ、夕方部屋に戻ってからキーボードに向かって作曲するという作業を繰り返し、十二月に入る頃には、十曲くらいのストックを持つまでになった。

 そのうち一人二人と足を止めて聴いてくれるようになり、常連の客がついたのもこの頃だった。

 ファンレターももらった。数人の女子高生が地べたに座り込んで惜しみない拍手をくれた時、凛香はあまりの嬉しさに泣きそうになったのを昨日のことのように思い出す。

 クリスマスの恋人同士を歌った甘酸っぱい歌詞のアップテンポの曲が評判になり、何重にもなった人垣を前に、いっぱしのライブ気取りを経験した日には、もうこの状況から抜け出せなくなっていた。

 凛香は完全にストリートの魔力にとりつかれてしまったのだ。


 凛香のすぐ後ろ側のベンチのところで、ギターを手に弾き語りをしている人がいるのは当然知っていた。ストリート開始初日にここで歌ってもいいかと了解を得た当人なのだから。

 それ以降、目が合えば会釈を交わす程度だったその人に、クリスマス当日の夕方、演奏の準備中に突然声をかけられたのだ。

 凛香はちょうど、底冷えのする石畳の上でキーボードスタンドを組み立てているところだった。少し前から誰かの視線を感じていたが、路上ではよくあることなので別段気に留めもせず、黙々と作業を続けていた。

 だが、しかし。なかなか立ち去らない上に、徐々にその人が距離を縮めてくる。じっと見られているように感じる視線が正直気持悪くて、イライラが限界に達しようとしていた。

 邪魔なんだよ、と言いたいのをぐっと堪え、力任せにネジを締めていく。

 凛香の性格上、にっこり笑って何か御用ですかなどとしおらしく訊くなんてことは、到底無理な話だったので、こうなったらどこまでも無視を決め込んでやろうと、絶対に顔を上げなかった。

 すると遠慮がちに、こんにちは、と言う声が頭上をよぎる。

 凛香の俯き加減の視線の先には、その言葉を発したと思われる人物の履き込まれた大きなボロボロの靴があった。男の足だ。


「あの……。すみません。いつも君の後ろで、ギターやってる者です」


 突然降ってきた男性としてはやや高めの響きのある声に、凛香はスタンドのネジを回していた手を止め、顔を上げた。


「ど、どうも。こんにちは」


 かろうじてそれだけ言葉を返す。というか、いったい何の用だろう。すらりと背の高いその人物を、凛香は訝しげに睨みつける。

 よほど凛香の態度がトゲトゲしかったのだろう。目の前のその人物は一歩二歩と後ずさりして、引き攣ったような笑いを口元に浮かべ、真っ黒なレンズのサングラスを、すっとはずした。

 横長レンズのスポーティーなサングラスを取り除いたその人は、予想に反して優しげな目をしていた。きりっとした眉の下で、眩しそうに目を細め、精一杯の笑みを浮かべている。

 次第に光に慣れてくると、くっきりとしたラインの二重まぶたの目を大きく見開いて、ともすれば冷ややかにも見えかねないグレーがかったブラウンの瞳を露わにする。

 凛香は心の中で、うーんと密かに唸った。これはかなりの上物だ。まさしく世に言うところのイケメンの部類ではないかと。



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