24.出会いは突然に その1
「どうしてもダメか?」
「あたりまえだ。却下」
「生徒の頼みでも?」
「も、もちろん…………」
いくらかわいい生徒の頼みであっても、理不尽な要望は拒否しても許されるはずだ。
「あいつらが言ってたぞ。鷺野先生はいつも近寄りがたくて怖いイメージだけど、そこが素敵で、かっこいいってな」
「…………」
今度は褒め殺し作戦だろうか。あまりにも見え透いた広海の手口に開いた口が塞がらない。その手には乗らないぞ、絶対に。
「そんな健気な生徒たちの願いを、おまえはいとも簡単に断ってしまうんだよな?」
「…………」
直接生徒から頼まれたわけではないので、彼らが健気かどうかなんて、知ったこっちゃない。そうそう。広海の言動に振り回されてはいけないのだ。
「一学期の終わりに生徒たちが勝手にやってたアンケートがあるんだけど、男女総合の投票結果、おまえがダントツで人気教師ナンバーワンに選ばれたらしいぞ。そんな彼らをないがしろに出来るわけないよな」
「えっ?」
文化祭のプログラムに関するアンケートだとばかり思っていたのだが、そんなものまであったとは……。この情報については、凛香は今まで全く知らなかった。
「集計結果は新学期が始まってから、生徒会の掲示板に貼り出されるらしい。その中でも女子生徒に人気があるって、いいよな。同性に好かれるのは、おまえの人間性が認められている証拠だろ? 教師冥利につきるよな」
「そんな遊びのアンケート、冗談に決まってる。本気にする方がどうかしてるぞ。どうせ女子生徒には、あんたが一番人気だろうし」
「いや、俺もそう思ったんだが……というのは、おいといて。それが違うんだ。ほんの数票差だったらしいが、おまえに軍配が上がった。ちなみに、男子生徒の人気ナンバーワンは里見さんだったらしい。そこでだ。人気者のおまえに舞台で何かやってもらえれば、文化祭が盛り上がるとでも思ったんだろうな。あいつら、ああ見えて、案外見る目があると思わないか? 俺はおまえが選ばれて、誇らしく思うぞ。まあ、男子生徒が里見さんおしなのは、あれは見る目というよりも、本能的なものだろうけどな。なあ、凛香。ここらで一発、昔みたいに舞台で暴れてみないか? 俺も一緒にやるから。なっ? 頼むよ」
広海が両手を合せ、凛香に頼み込む。
「この通りだ。凛香、頼むよ。別に昔のことを公表する必要はないんだし。おまえと組んで歌やってた、なんてことは、誰にも言わない。それならいいだろ? な? 凛香」
凛香は必要以上に顔を寄せて迫ってくる広海を追い払うようにしてコーヒーを一気に飲み干し、ゴツンと荒っぽい音を立てて、カップをテーブルに置いた。
「お、おい、凛香。俺が初任給で買った記念のコーヒーカップが……。割れたらどうするんだよ。粗末にするな」
「はいはい、悪かったですね。それくらい、ちゃんと手加減してますから」
「そう願います」
「なあ、広海」
「なんだ?」
「うまかった。ひろみの、コーヒー……」
凛香はそっぽを向きながら、あくまでも付け足しといったニュアンスで、棒読みのようにつぶやいたのだが。
「えっ? 何か言ったか? 聞こえないな。何だったのかな。ねえねえ、もう一回言ってよ。なあ、凛香!」
何かとても重要なことを聞き逃したかのようにわざと慌てふためいて、執拗に凛香を問いただすのだ。この、確信犯め。
「ったく、もう……。だから。うまかったって言ってるんだ。広海の淹れてくれたコーヒーが」
とたん広海が形相を崩し、でれでれと笑顔になる。
「そうか。うまかったか。照れずに、はっきりそう言えよ」
「照れてません」
「おう、おう。凛香ったら、ホントに素直じゃないんだから。じゃあ、もう一杯どう? ちょっと待ってて下さる?」
カップをトレイに載せて、突然女言葉になってふざけた態度の広海が台所に舞い戻る。
あの頃も、そうだった。凛香が一心不乱にキーボードと譜面に向かっていると、いつの間にかテーブルには湯気が立ち上るコーヒーがそっと置かれていて。
ミルクも砂糖も何も入っていない、ただのブラックコーヒーだけど、広海の淹れてくれたコーヒーだけは、そのままで飲めた。
しっかり濃い目の色がついているのに苦味が少なく、さらっとしていて、鼻の奥にほわっと芳醇な香りが広がっていく。
凛香は床から立ち上がってソファに座り直した。そして、ふかふかの座面に手をついたとたん、身体が斜めに傾き、いつしかゴロリと身体を横たえ、まどろみ始めてしまったのだ。