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そして、始まる  作者: 大平麻由理
本編
22/91

22.カリスマ主夫広海 その2

 さっき音楽室でうかつにも倒れてしまったせいで、広海のクライスレリアーナを聴きそこなったことが残念で仕方ないのだ。

 出来ることなら、続きが聴きたい。頼めば弾いてくれるのではないかと、かすかな期待を抱き始めていた。

 広海のことだ。間違いなく官舎にグランドピアノを押し込んでいるだろう。来栖の話よりも、仕事の話よりも。何よりも、広海のピアノが聴きたい思いが勝って、誘いに乗ってしまった……ということだ。

 凛香は、はやる気持ちをなんとか抑え込んで、広海の車の助手席に再び乗り込んだ。

 学校で乗った時とは違い、足取りも軽くひょいと席に上ることができた。地中海風リゾットは、凛香をすっかり元通りにしてくれた。

 もちろん店の食事代は、広海が支払うと言って断固譲らなかった。凛香はしぶしぶそれに従い、おとなしく財布をバッグに戻した。



 まさしく老朽化という言葉がぴったりな広海の官舎は、おたふくから車で十分ほど走ったところにあった。ということは、凛香のマンションもここからそう遠くはないはずだ。

 マニュアル車をいとも簡単に操って、駐車場にバックで入庫していく運転席の男をいつしか目で追っている自分に気付き、凛香は慌てて目を逸らした。

 危ない、危ない。この男の思う壺になるところだったじゃないか。

 

 五階建ての官舎は、よくある団地の仕様と同じで、玄関のドアも何度もペンキを塗り替えているせいか、もったりしていてどこかやぼったさが拭えない。

 自称インテリアマニアの広海も、ここでは自慢のセンスを存分に発揮できないのではないかと思えるほど、朽ち果てた感じのする建物だ。

 ところが……。真っ暗だった室内は、照明のスイッチを入れるや否や、瞬く間にくっきりと全容が露わになり、家具の色合も、デザインも、無機質な電化製品までもが全く期待を裏切ることなく、美しいフォームを浮かび上がらせる。

 内装は入居者が変わるたびに手が入れられるのだろうか。凛香のマンションよりも見栄えがいいのはどういうことだろう。

 もちろん、広海の掃除が行き届いているところが大きいのは言うまでもないが、これではますます凛香の部屋に広海を呼ぶことは出来なくなったと、心が沈みこんで行く。

 広海の場合、これがいつも維持されているわけだから驚きだ。

 初めて広海の家を訪れた人ならば、誰もが足しげく通って来ている彼女の仕業だと思うに違いない。

 だがそれは間違いで。正真正銘、広海の手によって美しさがキープされているだろうことを、凛香は知っている。

 あまりの美しさに、目を奪われる。自分の部屋と是非ともトレードして欲しいものだと真剣にそう思った。

 広海のような奥さん、いや、旦那さんを持つ人は、楽でいいだろうなあ、などとひとしきりため息をつき、うっとりとした目で部屋中を眺め回してしまった。

 でも、もし。万が一にもこんな奴と結婚なんかしようものなら、部屋は見かけより使い勝手優先だと豪語する凛香とは、一日たりとも結婚生活は続かないだろう。それなのに……。

 なぜかあの頃、広海が凛香のがらくた部屋に平気で入り浸っていたのはなぜ? 片付けろと、頭ごなしに怒鳴られたこともなく、我慢している様子でもなかった。

 当時はそんなことも気にならないくらい、のめり込むものが存在したと言うことなのだろうか。音楽が緩和剤の役割を果たしていたのだろう。


 やはり例のモノはあった。防音工事が施されている部屋に、大きなグランドピアノがでーんと据えつけられている。

 まっ白な壁紙に、指紋ひとつついていない黒いつややかなボディーが映える。

 本当にここがあのおんぼろ官舎なのだろうか。凛香は何度も目を凝らして見た。そして、まるでモデルルームを見学する客のように、感嘆のため息を漏らしながら室内を順次歩き回って行く。

 こんなことをしている場合ではないのだが、どうせ今夜が最初で最後の鶴本家の訪問なのだ。

 短時間のうちに美しさを堪能させてもらわなくてはならないのだから、少しばかりの野次馬根性は見逃してもらうことにしよう。

 一通り室内見学を終えた凛香は、広海に促され、台所と和室を繋げてワンフロアにしてあるリビングの白いソファに腰を下ろす。


「そのソファ、いいだろ? 北欧の名だたる職人が作った物らしいが、店の移転による大幅プライスダウンってのをたまたま見つけたんだ。出会ったとたん、即決だよ。今では我が家の要とも言える家具だ。ベッド代わりにもなるし、大人でも三人は座れる。今からコーヒーを淹れてやるからな。おまえはそこで横になっててもいいぞ。疲れただろ?」


 せかせかと立ち働く広海を横目に、凛香は言われるまでもなく、もうすでに身体を横たえていた。

 こういったタイプのソファは、寝るためだけに存在するのではないかと思えるくらい、座ったとたん、自然と寝そべってしまうのだ。

 凛香は、白い壁に不似合いな木目調の天井を見上げながら、本日の広海からの借りをどうしたものかと思案していた。

 倒れた時の看病に始まり、おたふくの食事代や今も家に上がりこんで、コーヒーまでご馳走になろうとしている。

 これではもう完全に、ただの同僚としての付き合いの域を超えてしまっているのではないかと思い悩んでいたのだ。

 お礼に食事に誘うというのはよくあるパターンだが、これ以上広海と関わり合うのもどうかと思う。

 まだまだ先の話だが、バレンタインデーの時に、義理チョコ増量で返すというのどうだろう。

 これはなかなかいいアイデアだ。凛香は満足げにこっそりとほくそ笑んだ。



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