2.イエローオーカーのうねり
「鷺野、ホワイト貸してくれ」
「チタニウムならありますけど」
「ああ、それでいい。ついでにイエローオーカーも」
「はい……」
凛香は絵の具を渡しながら、後悔の念にかられていた。
どうして宇治の隣に陣取ってしまったのだろうと。
授業で使われていない第二美術室の中央のテーブルに、白い布が置かれていた。
自然に見えるよう工夫して皺を作り、その上にビンや果物、古いランプなどが無造作に並べられている。
そしてそれを取り囲むように美術部員がイーゼルを立てて、キャンバスに油絵を描いているのだ。
どうしてもこの位置でランプを描きたかったため、周囲を確認せずに場所取りをしたところ、後になって取り返しのつかないことをしてしまったと気付くのだがもう遅い。
凛香のすぐ近くに先輩である宇治が絵の具まみれのシャツをまとい、キャンバスを睨みつけていたのだ。
三年生なのに引退することもなく始終部活に顔を出し、凄まじいスピードで油絵を描いている宇治は、凛香にとって、あまり好ましい先輩ではなかった。
技術面では学ぶところは多いのだが、その性格がどうも好きになれなかったのだ。
まあ別に同じ部活の先輩だからと言って好きにならなければいけない義務があるわけでもなく、適当に距離を取って差し障りのない後輩を演じていればそれでいい。
それでいいのだが……。
年々縮小ぎみ傾向にある美術部において、少人数であればあるほど、先輩後輩の繋がりも親密になる。
凛香のどこが気に入ったのか、はたまた、ただ単に一風変わった後輩としてちょっかいをかけているだけなのかはわからないが、とにかく頻繁に凛香の領域に侵入してくる宇治がうっとおしくてならなかった。
二年になってからはますますひどくなり、凛香の絵の具はほとんどこの隣の男に使われてしまった、と言っても過言ではないくらい、悲惨な状況が続いている。
小学校の時に使っていた水彩絵の具と違って、油絵の具は値段も張る。
そうそう何度も親にねだるわけにもいかず、もらったばかりの今月の小遣いも、ついに残り数百円というところまで来てしまった。
同じ静物画を描いていれば、必然的に色も同じものを使う場合が多くなる。
チタニウムホワイトもイエローオーカーもまだまだ必要なのに、宇治に貸したが最後、全部使われてしまうのも覚悟しなければならない。
そうすると、いつまでたっても自分の絵が完成しないということになる。何という悪循環。
宇治の絵の具の消費量は、普通では考えられないほど莫大だ。
今も聞こえているが、ペインティングナイフでガシガシペタペタと描く技法は、宇治の手にかかれば、信じられないほど多量の絵の具を必要としてしまう。
ほぼ同じ時間をかけて描いているというのに、横から見る宇治の作品の絵の具の厚みは尋常じゃない。
イエローオーカーが山脈のようにうねり、背景にまで見事な表情を生み出す。
嫌いではないのだ。
偶然が生み出す産物なのかもしれないが、宇治の描き出す世界は凛香の魂をも揺さぶる。
ただし。その絵の具のほとんどが凛香から奪ったものであるというのも事実。
そう考えるだけで凛香のはらわたがぐつぐつと煮えくり返ってくる。もう我慢もここまでだ。
ガシガシ、ガシガシ。
ペタペタ、ペタペタ……。
そんな凛香の思いなどいっこうに気付かないまま、ひたすら絵の具を盛って描き続ける宇治に、彼女はついに切れた。
「先輩。私が貸した絵の具、全部返して下さい。耳をそろえて、全部!」
「お、おい。なんだよ」
悪いが、おろおろする宇治に、遠慮などいらない。凛香はすでに戦闘態勢に入った。
「先輩だと思って黙っていたけど、もう我慢出来ない。返せっ! 返してくれないのなら、今までのあんたの油絵の作品、全部、差し押さえるぞ!」
他の部員が一斉に凛香に注目しているにもかかわらず、がんがんまくし立てる。
こんな非常識な先輩など、どうなってもいい。退部も覚悟して今までの不満をすべてぶちまけることもいとわない。
「絵の具を貸してくれだって? たったの一度も返してくれたことがないくせに、よくもそんなことが言えたもんだ。後輩を困らせるのがそんなに楽しい? おい、黙ってないでなんとか言えば! あんたの技術のすばらしさに免じて、今まで大目に見てきたけど、もう我慢ならない。早く、早く返して! 私の絵の具。全部返せよ、おい、こらっ!」
ラ行を巻き舌にしながら、自慢のロングヘアを振り乱し、鬼の形相で宇治につかみかかる。
歳の近い弟がいる凛香にとって、取っ組み合いのけんかなど珍しくもなんともない。
最近暴れてなかったことも手伝って、ここぞとばかりに凛香の戦い魂にスイッチが入る。
学年女子一番の高身長を誇る凛香は、男子平均身長の宇治に全く引けを取らない。
襟首をつかまれた宇治は自分の手を下に垂らしたまま、凛香とにらみ合う形になる。
女子には手出しはしないと紳士ぶっているのだろうか。
そんなもの、この場では何の意味もなさない。凛香はますます復讐の炎を燃え上がらせ、こぶしを振りかざした時だった。
それまでなすがままだった宇治が、こぶしを掲げた凛香の手首をいとも簡単につかみ、襟首をわしづかみにしているもう一方の手もふりほどいたのだ。
「鷺野……。わかった。俺の絵、おまえにやる。あさっての日曜、画材店に行くから、おまえも来い」
つかまれていた手首が凛香の頭上でふいに自由になる。
目の前の男は何もなかったかのように再びイーゼルの前に腰を下ろし、キャンバスに向かってペインティングナイフを操り始めた。
他の部員から安堵のため息が漏れる。
凛香も怒りが冷めていくにつれて、今度は反対に気恥ずかしさが募っていく。
そうなのだ。これが凛香の唯一の欠点なのだ。
理不尽なことが起きると、激昂して周りが見えなくなる。おまけに言葉遣いも悪い。
小さい頃の遊び相手が弟とその友人たちだったせいもあるのだろうか。
いつしかこうなってしまった自分が時々情けなくなるのだ。
そしてやって来た日曜日。凛香は宇治に言われた待ち合わせ場所に出かけて行くのだが、あのけんか以来、まともに口を利いていないので、どうも気まずい。
あの日の帰り間際に待ち合わせ場所を告げてきたきり、昨日の土曜日は全く顔を合わせていないのだ。
凛香はためらいながらも、去年買った少しレースのついたブラウスとデニムのスカートという凛香らしからぬ乙女な服装で、五分前には待ち合わせ場所に着くように家を出た。
画材店ということは、きっと絵の具を買って返してくれるということなのだろう。
新品の絵の具を貸したわけではないので、あつかましいと思われないかと今度は別の次元で気を遣い落ち着かない。
でもこれも仕方ない。絵の具を返せと言ったのは、自分なのだ。
そして、うそかまことか、絵をもらう約束まで取り付けた。
物につられるわけではないが、今日一日をやり過ごせば、宇治とてこれ以上凛香にかまってこなくなるだろうと思っていた。
一昨日の凛香の失態を見れば、誰だってそんな激情型の女など、金輪際関わりたくないと思うに決まっている。
そうだ。そうに違いない。
凛香は自分自身を奮い立たせると、背筋をピンと伸ばして、駅に向かって颯爽と歩き始めた。