17.おたふく その1
広海が車を停めた店は、おたふくというありがちなネーミングの洋食屋だった。実は凛香は学生の頃、彼と二人でよく通った店だった。
ところが久しぶりに店の前に立った時、そこがおたふくだとは気付かないほど、店構えが劇的に変わっていたのだ。
店の前にぶら下がっていたよれよれの黄ばんだのれんはどこにも見当たらず、そのかわりに小さなボードが脇に立てかけてあり、本日のディナーなどとカラフルな横文字が並んでいる。
店内も驚くほどの変化を遂げていた。昭和の臭いをプンプンさせていた年季の入った椅子とテーブルがものの見事にすべて撤去され、モノトーンのシンプルで、洗練されたものに取り替えられていた。
壁は漆喰で塗り固められ、自然に近い黄土色が店内に落ち着いた雰囲気を生み出している。
気の利いた間接照明や、要所要所に飾られた小物類に至るまで、あらゆるところに細やかな演出がなされているのに驚く。
もうそこは街の洋食屋ではなく、すっかりおしゃれなカフェレストランに生まれ変わっていたのだ。
でも凛香はどこか物足りなさを感じてもいた。
脂ぎった床や、ぎしぎしときしむ椅子、そして、割烹着を着た気立てのいい店主のおばさんの姿がそこにないことに、一抹の寂しさを覚える。
白いシャツに黒いパンツ。そしてギャルソンエプロンをつけた今どきの若い店員が、いらっしゃいませと言って、グラスとおしぼりを凛香と広海の前に置いた。
ポンと差し出されたのはブルーの表紙のメニュー。ご注文がお決まりになりましたらテーブルにありますボタンを押してお知らせ下さいと店員の味気ない淡々とした説明があり、そそくさと立ち去る。
あきれた凛香は、思わず広海と目を合わせた。
「なあ、広海。ここ、おたふく……だよな?」
凛香がそう訊ねるのを予測していたかのように、横に座る男は優越感を帯びた笑みを浮かべながら、そうだと頷く。
それも、わざわざ間隔を空けて座っているにもかかわらず、そのわずかな隙間を無理やり埋めるように、ぐいぐいとくっついてくるのだ。
他にも席は空いているのに、どうしてカップルが座るような横並びのシートの席をあえて選ぶのかと訝しく思う。
が、正面から見つめ合う形になるのも、それはそれで気まずいのではないか。
凛香は改めて腰を浮かし、これ見よがしに、広海との間をしっかり三十センチは取って、座りなおした。
「こいつ……。わざと俺から離れたな?」
「あたりまえだ。なんであんたとくっついて座らなきゃならないんだ。食べる時、肘も当たるし、邪魔だろ?」
「はいはい、わかりました。あなたさまの言うとおりでございます。それにしても不自然だな。この空間。人間一人座れると思わないか?」
広海が空いた三十センチの隙間を見ながら、またその半分ほど間をつめて来る。
こうなると凛香は身動きが取れない。無情にも左横は漆喰の壁だ。はあーーとあきらめにも似た長いため息をつき、凛香は蔑むような目つきで、隣の男を見た。
「おいおい、ため息ばかりついてると幸せが遠のくぞ。ははは、逃げれば追う。これ、男と女の普遍的法則だから。な?」
「そんな法則、聞いたことないし」
「まあまあ、そう、冷たいこと言わずに。今夜だけ、辛抱しろよ。それより凛香、この店、雰囲気が変わっただろ? 去年、リニューアルしたんだ」
おしぼりで手を拭きながら、広海がしたり顔で話す。凛香は頷くでもなく、さらりと聞き流すスタンスは崩さない。
リニューアルなど、見ればわかる。仕入れた情報を得意げに話す姿は、昔と少しも変わっていなかった。
「でな、ここの店主のおばさんが三年前に亡くなって、息子が跡を継いだらしい。俺たちが学生の頃は、おばさんが一人で店を切り盛りしてたけど、大変だったんだろうな。息子は巷では結構有名な料理人で、おばさんの味を引き継ぎながらアレンジを加えて、昼時にはOLや主婦層で行列ができてるって噂だ」
「……そうだったんだ。おばさん、残念だったな。まあ、そんなに親しかったわけじゃないけど、顔を合わせれば体調を気遣ってくれるし、サービスだよと言って、増量してくれたりもした。青春時代の思い出が、またひとつ消えてしまったな」
あのおばさんが亡くなった……。それは凛香にとって、ショッキングな出来事だった。
子どもの頃、おいしい食事を作ってくれた今は亡き祖母を思い出し、あのおばさんと記憶が重なる。胸が痛い。
「そうだな。おばさんが生きているうちに、おまえとここに来れたらよかったのにな……」
広海が柄にも無く神妙な顔つきになる。そして店員が置いていったメニューをおもむろに広げ、何にしようかと独り言のようにつぶやいた。
「広海は、ここにはずっと来てたのか?」
店の内情についてやたら詳しい広海に、確認するように訊いてみる。
「いや……。俺、新規採用の時は、県の西のはずれの高校に赴任させられてただろ? その頃は一切来なかった。四年前に東高に移動になってからだな、またここに通うようになったのは」
「そうか……。で、あんたの彼女もここに連れて来たりするのか?」
凛香は、絶妙なタイミングでさっきの仕返しを謀る。
確か広海にも付き合っている女性がいるはずだ。凛香の恋人の名を知っている男に、取引条件のように話を切り出した。
「そんなことも、あったかな……」
凛香は、遠い目をして思いがけない返事をする広海をまじまじと見た。過去形の言い分から察するに、今はその彼女とは別れたとでも言うのだろうか?
「確かに去年、おまえが東高に転勤してきた時はまだ彼女がいたけどな。去年の暮れに別れた」
それはまた、ご愁傷さまですと凛香は心の中で広海を哀れんだ。