13.ピアノと腕時計の相関図 その1
「では、一時になりましたので、本日の職員会議はこれで終了します。午後は自主研修及び、補習になりますので、各自の仕事をお願いします」
ようやく教頭が締めくくりの言葉を述べ、会議の終わりを告げた。それにしても長かった。そして暑い。
学園祭の説明の後、進路指導について三年生の今後の予定を中心に話し合いが進んだ。指定校推薦やAO入試が目前に迫っていることもあって、議論は熱を帯びてくる。
それでも教頭は不用意な会議の時間延長は快く思っていない。
横道に逸れそうになると即座に軌道を修正して、予定通りの時間内ですぱっと会議を終了させる手腕は、教頭ならではと言えるだろう。
凛香は椅子に座ったまま大きく伸びをして、時計に目をやった。
三十分後には、また例のごとく、補習講座に生徒がやってくる。それまでに資料の準備もしなければならない。
つまり、このままでは昼食休憩は取れそうに無いと結論付けた。
それよりもこの短い休憩時間に最優先されることがある。
さっきからチラチラとこちらを窺う視線の主の誤解を解かなければならないのだ。
その視線は決して凛香に向けられているのではない。隣の席で腕を組み、じっと目を閉じている広海にのみ注がれている。
口数も少なく、見た目だけは麗しい(らしい……)広海は、瑛子だけでなく、既婚の女性教諭にもたびたび熱いまなざしを向けられる存在だ。
こんな奴に騙されるなと声を大にして言いたいところをぐっと堪え、凛香はすくっと立ち上がると、あからさまに顔を背けた瑛子に遠慮なくつかつかと近寄って行った。
「里見先生。ちょっといい?」
凛香は職員室を出て行こうとする瑛子を引き止めた。
「なんでしょう。あたし、今から社会科の研修で西高に行くんです。時間ないですけど」
大きなショルダーバッグを手にした瑛子は、冷たく言い放つ。
「二分で済む。ちょっと来て」
凛香は有無を言わせず瑛子の腕をつかみ、隣の給湯室に連れ込んだ。
「や、やめてください。何するんですか?」
「ごめん、悪かった。昨日のことだけど……。里見さんにちゃんと言っておかないと、私も困るから」
「言い訳なんていいです。補習講座の件も、あなたが鶴本先生に根回しされてたんでしょ? どうせ、その持ち前の強引さで、鶴本先生に取り入ったに決まってます!」
「里見先生。だからそれは誤解だって。私と鶴本先生は、何もないから。付き合ってるとか絶対にありえない。もちろん、大学時代の同期だし、全く知らない間柄ではないけど……」
「二人してあたしのこと、笑いものにしてたんだわ。ひどすぎます」
瑛子の思い込みもここまでくれば大したものだ。
こうなったら奥の手を使うしかない。凛香はあまり気が進まなかったが、これを持ち出せばきっと相手も納得するだろうとしぶしぶ口を開く。
「里見先生、よく聞いて。私には……。私には、ちゃんと付き合ってる人が別にいる。前の勤務先に、そういう人がいるから……」
瑛子がきょとんとした顔で凛香を見る。
「あははは……。びっくりした? 里見先生、そういうわけだから。鶴本先生は私とは全く関係ない」
「そ、そうなんですか? ほんとに?」
「ああ。本当だ。だから、まあ、がんばって。そうだ。あいつ……いや、鶴本先生の好物は、コーラだ。お茶類はあまり飲まない。差し入れする時はコーラで機嫌を取るといいぞ。じゃあ。健闘を祈ってる……」
凛香はぽかんと口を開けている瑛子の肩をぽんと叩いて、給湯室をあとにした。
瑛子と話していた時間は、ぴったり二分。凛香は資料をコピーして、どっと押し寄せる疲れを背中に感じながら、よたよたと音楽室に向かった。
日も暮れようとする頃、ようやく補習講座も終わり、グラウンドの整備をしている野球部の生徒たちを凛香はぼんやりと窓越しに眺めていた。
と言っても、これですべての仕事が終わったわけではない。今から職員室にもどって、もう一仕事、いやもう三仕事ほどしなければ凛香の一日は終わらない。
終業式前後に行ったクラスの個別懇談の結果をまとめ、進路希望のデータを集計し、二学期の授業計画に沿った美術教材の注文もしなければ九月に間に合わない。
そういえば、奨学金を申請していた生徒の書類の審査も期限が迫っている。
補習講座の遅刻や欠席日数の多い生徒の家に電話をして、保護者とも話をしなければならない。
うっかり忘れるところだったが、美術教育研究会の論文も今日明日中に仕上げて、代表者宛てに送付しておかないと、また督促のメールが来てしまう……。
「はぁ……」
たそがれ時の音楽室に、凛香一人のため息が十人分くらいになって大きく響き渡る。
どさっとピアノの椅子に腰掛け、鍵盤の上に載せた右手をゆっくりとうごかしてみた。
ど、れ、み、と澄んだ音が鳴る。自分で調律もしてしまう広海のマメさのお陰だろうか。
学校のピアノとは思えないほどメンテナンスが行き届いたグランドピアノは、特上の音を響かせ意外にも凛香の手に馴染みがいい。
こんなことをしている場合ではないのにと思いながらも、一度椅子に張り付いてしまった腰を上げるのは、容易ではない。
初めは隣の生徒が弾いていたソナチネをポロンポロンと真似ているだけだったが、次第に熱が入り、自分でも気付かないうちにしっとりとしたあの曲を弾き始めていたのだ。
途中、曲が盛り上がりかけたところで、みしっと床が軋む音がする。凛香は何だろうと手を止め、音のする方向に振り向いた。
するとどうだろう。神妙な顔つきをしたよく知った人物が、黒板にもたれかかるようにして立っているではないか。
いつ、どうやってここに入ってきたのだろう。凛香は怪訝そうな面持ちで、そこに立つ広海に目をやった。