11.運命は動き始める その1
「職員のみなさん、おはようございます。ただいまより、職員会議を始めさせていただきます。本日の議題は、二学期の行事予定と三年生の進路指導についてです。では、まず初めに校長より……」
凛香は寝不足の目をしょぼしょぼさせながら、職員室の自分の席で幾度となく襲ってくる眠気と戦っていた。少しでも気を緩めると、まぶたが閉じてしまうので、手の甲をつねって、どうにか意識を保ち続ける。
進行役の教頭が、この暑さの中いつもと変わらぬ涼しい顔で、淡々と議事を進めていく。
校長がのっそりと立ち上がり、うおっほんと物々しい咳払いをした。いつどんな時でも、校長の話というものは退屈で長いと相場が決まっている。
あくびを我慢するせいで、さっきから鼓膜のあたりがぼわんとして変な感じだ。
斜め向かいのママさん先生も眠そうだ。子どもの夜泣きがまだ続いているのだろうか。瑛子はといえば……。朝から目も合わそうとしない。完全無視といったところだ。
おっと、こんなことに気を取られていている場合ではない。とにかく今は校長の話に集中するのが先決だ。凛香は邪念を振り払うように大きく深呼吸をして、眉間に力を込めた。
「……というわけで、えー、職員のみなさんには、夏休みの間も、まあ、補習講座及び、受験対策授業を開いて頂き、ご苦労をかけておるわけですが、あー、それもこれも、全ての生徒諸君が、えー、将来の目標を実現するための手助けということで、ご了解いただきたいと、まあ、そう思うわけでありまして……」
額に流れる汗を拭きながら、校長が独特の間延びした口調で職員にねぎらいの言葉をかける。
三年生にとっては、この夏が大きな山場になる。学校の補習だけでなく、塾や予備校などにも通いながら受験に向き合っている生徒も多い。
幸い、凛香も広海も今年度は三年生の担任ではないので、そういった面ではやや気楽な立場ではある。
しかし音楽室で補習講座を受けているメンバーや顧問をしている美術部の生徒の顔を思い浮かべると、やはり他人事ではなくなってしまう。
順調にこの夏を乗り切って、来春にはそれぞれが納得のいく結果を出せるようにと、祈らずにはいられない。
今から十数年前になるだろうか。凛香も東高の生徒と同じように、十八の冬に大学受験を経験した。
高校では美術部に所属していたにもかかわらず、周りが芸大だ美大だと騒ぎ始めてやっと将来を考え始めたというくらい、のんびりとした受験生だった。
その上、美術に関して技術的に秀でているわけでもなく、美大に進学するには、不安要素がありすぎた。
他の同級生たちは、高一のときからすでに目標を定め、デッサンや油絵の受験専門教室に通っていたり、目指す大学の先輩達に指導を受けたりしていたのだ。
何も準備をしていなかった凛香は、気付いた時にはもう手遅れ。
他に何もとりえがないというのに、芸大はもちろん美大も進学は無理だとあきらめざるを得ない状況に追い込まれていたのだ。
ショパンやシューマンのメロディーに心打たれて小さい頃に習っていたピアノも途中で辞めてしまって以来、音楽そのものに素直な気持ちで向き合えなくなっていた。
そう考えると、やはり凛香には絵を描くことしか残っていなかった。
でも、美大への受験には間に合わない。その時は百パーセント、未来への道はすべて閉ざされたように見えたのだが。
浪人も覚悟で担任に進路相談を持ちかけたところ、教育大の美術専攻はどうですかと新たな方向を導き出してくれたのだ。
目からうろこだった。配点のウェートが絵の点数ばかりでなく一般教科の成績にも重きをおくため、凛香のような受験生に有利だという。
純粋に絵だけを描いてそれを職業として食べていけるのは、ごく一握りの人たちだけだ。
働かざるもの食うべからずをポリシーとして自営業を営む凛香の両親も、美術教師ならば好きな絵に関わりながら仕事も出来て、一石二鳥だと手放しに喜んでくれた。
凛香の人生が明るく開けた瞬間でもあった。
そして見事、教育大に合格して、電車で片道二時間の地獄の遠距離通学が始まったのはいいが、入ったばかりのサークルをたった一日で辞めてしまうなどという凛香らしからぬ失態をやらかしたのは、記憶に新しい。
そのサークルに、今凛香の横で、全く会議など聞いていないのがまるわかりな音楽野郎、鶴本広海も在籍していたのは、後で本人に聞いて知ることとなる。
もちろんこの時は、ただ同じ大学の美術専攻と音楽専攻の学生であるというだけで、全くの赤の他人だった。
厳密に言えば、その後も現在も、あの、忌々しい口づけの一件を除けば、赤の他人の領域を超えたことはないと断言できる。
そして、そのサークルに入ったことが、凛香の失敗人生に大きく関わっていくことになる。
「校長先生、ありがとうございました。では次に、二学期に開催されます学園祭について、担当の近江先生より概要を説明していただきます。近江先生、お願いします」
「では、私の方から、学園祭の説明をさせていただきます。みなさんのお手元にあります、プリントの二ページをご覧下さい。日程はそこにありますとおり、十月……」
担当教諭の声が職員室に大きく響き渡り、思い出にふけっていた凛香も否応無く現実の世界に呼び戻される。
東高の学園祭は今どき珍しく、秋に開催されるのだ。
近隣の高校が三年生の受験に配慮して、五月、六月に開催するところが多い中、生徒の要望により、従来どおりの秋日程が組まれている。
やはり学園祭は秋だよなという生徒の意見に真っ先に賛同したのが、あの真面目で控えめな教頭だったというのだから驚きだ。
教頭に絶大なる信頼を寄せる校長が、すぐさまゴーサインを出したのは言うまでもない。
あくまでも生徒会と学園祭実行委員主導のもとで運営されるのだが、教師が携わる部分も多く、美術教師である凛香もここぞとばかりに数々の役割を担っている。
凛香はやや身を乗り出して、担当教諭の説明に聞き入った。