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そして、始まる  作者: 大平麻由理
本編
10/91

10.過去の小さな出来事 その2

「里見先生、今まで黙ってて悪かったけど、この人と俺、実は……ふっ、ふがふが……こ、こらっ、凛香、やめろ!」 

「だ、黙れ! 広海。それ以上、何も言うなって!」


 とにかく広海の口を塞ぐのが先決だ。何を言おうとしたのか気になりながらも、強引に押さえ込んだ。


「つ、冷たいっ! 凛香、何するんだ!」


 凛香は座っている広海の前に立ちふさがり、片手で口を押さえつけ、もう片方の手で持っていたコーラ缶を彼の首の後ろ側からボタンダウンのシャツのすき間にぐいっと押し込んだのだ。


「きゃーーっ!」


 瑛子が両手を口元に当てて、叫んだ。

 その瞬間、彼女の手からウーロン茶のペットボトルが滑り落ち、鈍い音を立てて床に落ちた。


「ひ、ひどい……。鷺野先生、やめて下さい! それに、鶴本先生まで、鷺野先生のことを凛香だなんて呼び捨てにして……。鷺野先生。どうして今まで皆を騙していたんですか? そんなこと、何一つ言ってくれなかったじゃないですか! 実は鶴本先生とこっそり付き合ってるだなんて。あんまりです。うわあああーーっ!」


 瑛子がなりふり構わず叫びながら音楽準備室を出て行った。

 おいおい、勘弁してくれよ。ここは学校だぞ。子供のけんかでもあるまいし……などと言っている場合ではない。

 瑛子が今とんでもないことを言ったような気がする、じゃなくて、言った。凛香が広海と付き合っていると。

 今すぐに瑛子を掴まえて、それだけは絶対に違うと訂正しなければならない。

 凛香はすぐさま踵を返し、瑛子の後を追いかけようと走り出した。すると、広海が彼女の腕をつかみ、待てと言って引き止めるのだ。


「頼む。先に、背中の缶を取ってくれ! せっかく里見先生の誘いを断るいいチャンスだと思ったのに、ぶち壊しやがって……。お、おい。待てよ、待ってくれ! 凛香っ!」


 凛香は何のためらいもなく、すがりつく広海の腕を振り払った。

 瑛子は職員室に下りて行ったのだろうか。廊下に飛び出したとたん、これまたタイミングがいいのか悪いのか、補習講座にやって来た生徒とぶつかった。

 目を白黒させている生徒に、ちょっと待っててくれとだけ言い残し、猛スピードで、瑛子を追って駆け出した。



 職員室に着いた時には、すでに瑛子の姿はなかった。おまけに裏門の横にある駐車場からは、彼女の愛用の赤いセダンも消えていた。

 同じように廊下の窓から駐車場を見ていた教頭が、いつもの笑顔で凛香に話しかけてきた。


「鷺野先生、大変でしたね。里見先生はまだ若い。なかなか自分をコントロールできないんですね」


 一見頼りなさそうな教頭だが、実は職員一人一人をよく見ているツワモノだったりする。さすが管理職だ。

 すべてを見通されていたのかと思うと少し気恥ずかしいが、凛香は、ええ、そうですね、と曖昧に頷き、教頭の言葉を待った。


「彼女は鶴本先生を慕っているようですね。でも鶴本君はあのとおり、あれほどの男前なのに、彼女には無関心ときている。いや、彼女に限らず、女性にはあまり興味がないようで。誰か他に思い続けている人でもいるのでしょうか?」

「あっ、いや、それはどうでしょう……」


 広海のことなど今となっては何も知りようがない凛香は、教頭の言葉に困惑してしまう。


「あははは。すみません、あなたを困らせようと思って言ったわけではないのですよ。そうだ、確か鷺野先生は、鶴本君と同じ教育大出身で、同期生だったはずですね。少なからず、お互いをご存知なのではと。まあ里見先生もあそこの卒業生だから、今後も先輩として、里見さんのことよろしく頼みますよ」

「あ、はい……」


 教頭の言うとおり、広海とは大学の同期で、瑛子は後輩になる。

 つまりは、職員間であまりいざこざを起こさず、これからは穏便に頼むよ、ということなのだろう。

 結局、瑛子に会えなかった凛香は、重い足取りで音楽室に戻り、もやもやした気持を抱えたまま生徒の指導に当たった。



 その日の夜、凛香はなかなか寝付けなかった。昼間の学校での出来事が脳裏をよぎり、目が冴えてしまったのだ。

 そしてあの時、広海がいったい何を言いかけたのか、それが気になって仕方ない。

 あのことだろうか。思い出すだけでも嫌になる過去の……あの出来事。

 今さら蒸し返してどうしようというのだろう。

 誰に迷惑をかけたわけでもない。ただ若気の至りで手を染めた、大胆なあの活動のことを言うつもりだったのだろうか。

 じゃあ他に何がある? 瑛子の誘いを断るチャンスだったとも言っていた。

 きっとデートにでも誘われたのだろう。それを断るために、何かを言い出そうとしていたのだ。

 ところが、あの出来事を暴露することが断る理由に繋がるとはとても思えない。あれは、ただの恥さらしでしかないはずだ。

 凛香は考えても考えても答えが見つけられない自分に苛立ちを覚える。

 広海の口を押さえ込んだ時、手のひらに感じた彼の唇の動きを必死で解読しようと記憶を辿ってみるが、探偵でもない限り、凛香にはわかるはずもなく。


 が、しかし。凛香は、もうひとつ思い出したことがあった。

 これもまた、過去の珍事のひとつなのだが、凛香にとっては、うさぎの耳垢程度の小さな出来事に過ぎないある事。

 別に深い意味はないと思うようにして、日頃は堅く封印している、過去の出来事。


 一度だけ交わした、広海との……。

 広海との口づけを……。



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