1.夏の日に
そして、始まる(旧タイトル、クライスレリアーナ)にお越しいただき、ありがとうございます。
今までお寄せくださった皆様のご意見ご感想を参考にさせていただき、改稿に励みたいと思っています。(2014年1月全話改稿済み)
尚、旧クライスレリアーナの内容と大筋であまり変わりはありませんが、新しいエピソードも加わっていますので、話数は以前より増えています。
ただいま、番外編を連載中です。(2014年1月~)
窓越しに、真夏の陽射しがじりじりと照りつけるグラウンドが見える。
空はどこまでも青く、遥か遠くに立ち昇る積乱雲は、見知らぬ大地に恵みの雨をもたらしているのかもしれない。
気温はとうに三十五度を超えているというのに、陸上部と野球部のメンバーたちはいつもと変わりなく大きな掛け声を響かせて、所狭しと走り回る。
野球部との交代を待つサッカー部の長髪イケメンが、木陰で飽きることなくリフティングを繰り返しているのも日課のようなものだ。
グラウンド横のフェンスの向こうにはテニス部の女子生徒がボールを追ってコートを駆け回っている。
バイザーの下にのぞく焼けた肌とは対照的に浮き立つ白い歯が、彼女たちの濁りのない真っ直ぐな心を映し出しているようだ。
日焼けは乙女の敵だというのに、太陽の下、躊躇することなくラケットを握るその姿は、まさしく青春真っ只中と呼ぶにふさわしい。
鷺野凛香は窓から顔を離し、黒板の上に並んだ大音楽家達の肖像画をぼんやりと眺める。
バッハにベートーヴェン、モーツァルトにブラームス。
あれがシューマンか……などとつぶやきながら、再び窓の外に視線を落とした。
防音設備が整い、冷暖房完備の音楽室の窓から見下ろす光景は、とてもこの世のものとは思えなかった。
ガラス一枚を隔てただけで、そこには天国と地獄の差が生まれる。
もう一度黒板の上をざっと見渡してみるが……。残念ながら、オッフェンバックの肖像画は見当たらなかった。
もちろん、窓の内側が天国で、外側が地獄だ。
彼らが熱中症にならなければいいのだがとせめてもの温情を示した後、凛香は肩に手をやり首を回しながら、ピアノの前に向かった。
外にいる生徒達には大変申し訳ないと思う。
幸か不幸か、誰よりも暑がりのここの主のおかげで、音楽室の温度は二十八度を大きく下回っているはずだった。
と言うことは……。必然的に、ここにいる凛香もこの学校の生徒なのかと問われるだろう。
が、しかし、音楽室にいるからと言って、必ずしも生徒であるとは限らない。
では、生徒でないとすれば、いったい何者なのか。答えは簡単だ。
教師だ。
真夏の午後、音楽室にいる鷺野凛香は、どういうわけかここの高校の美術教師である……らしい。
凛香は、この県立東高等学校、略して東高に勤めて今年で二年目になる。
以前の勤務先と合わせると、教師歴は五年。大学院を出て職歴五年ということは……。
足し算をすればすぐに答えは出てくる。
卒業した年から正規職員として県の教員として採用されているので、年齢は二十九歳。
アラサーと言われる域に十分到達している年齢だ。
昨年までは堂々と自分の歳を言えたはずなのに、今年になって急に年齢を口にしなくなった。
というか、いつの間にか誰にも年齢を訊かれなくなったので、あえて言う必要もなくなったというのが正しい。
凛香は最近、二十九という年齢に、微妙に寂しい気分を味わってもいた。
生徒達がおもしろおかしく噂しているのも知っている。
あの先生が結婚なんて出来るわけないよね、だって男みたいだもの……と。
かと思えば、鷺野先生ってまだ独身なんだね、婚活がんばらないと間に合わないよ、などと、本人を前にあからさまに結婚を勧められたりもする。
いったい、何が間に合わないんだ。独身でどこが悪い。
人生には様々な選択肢があるということを、今のうちからきっちりと学んでおいた方がいいぞ……とこっそり毒づくのだが、決して生徒の前でそれを堂々と宣言する勇気はない。
だからと言って、彼らの言うことをいちいち真に受けていては身が持たない。
長くこの仕事を続けるための秘訣は、そういったプライベートに関する噂を右から左へ受け流すことだと、凛香は最近身を持って学んだばかりだった。
では、絵筆とベレー帽が似合うはずの凛香が、なぜ冷暖房完備の音楽室にいるのか?
夏休みだというのに、学校に出勤してきてイライラを募らせた挙句、仕事をサボるためにここに涼みに来ているとでも?
あるいは何か用事があって、たまたまこの一時だけ音楽室に滞在していた……という可能性もなくはない。
だが、どちらも全くのハズレではないにしろ不正解だ。
凛香ともあろう人物が、そのようなありきたりな理由で音楽室で羽を伸ばすなど、あってはならないことだから。
真面目一徹、首尾一貫。品行方正で生徒の信頼も厚い。
仕事をサボるなんて言葉が凛香の辞書にあるはずもなく。
絵筆を楽譜に持ち替え、イーゼルならぬ、グランドピアノに向かう姿は、もはやここの主すらも近寄ることをためらうくらい毅然としたオーラを発するのに充分だった。
そう……。凛香がここにいる理由は、教育系の学部や学科への進学を目指す生徒に、ピアノと声楽の指導をするためなのだ。
進学先によっては、入試に実技課題を出すところもある。
楽譜も読めない、ピアノを弾いたことはおろか、触ったことすらないという生徒のために、特別に開講している補習講座を受け持っているのだ。
凛香はテキストにしているバイエルという教則本をぺらぺらとめくって、ため息をつく。
まずはト音記号とヘ音記号の違いから説明しなくてはならない。
そして音符の長さや休符の数え方も懇切丁寧に指導する。
あれもこれもと必要な指導内容をシュミレーションするだけで、気が滅入ってくる。
早くこの拷問のような補習講座を終えて、本来のポジションである美術室に帰りたいと願うも、時計の針は少しも動かない。
残念ながらまだ数時間、ここに停留しなければならない。
それにしても遅い。指定の時刻を十分も過ぎているというのに、生徒が来ないのだ。
凛香は立ち上がり、また窓際に立って、グラウンドに視線を彷徨わせる。
ちょうど窓の真下をキャンバスを抱えた女子生徒が通りかかる。美術部員だ。
Fの五十号だろうか。いや六十号かもしれない。
小柄な彼女が持つと、キャンバスが一人で歩いているように見える。
秋の学園祭に向けて、着々と準備が進んでいるようだ。
おっと、つまずいた。彼女がよろめき、キャンバスが大きく揺れる。
思わず鍵に手を掛け、窓を開けて彼女の名前を叫びそうになったが、次に繰り広げられる光景にその手を止めた。
あれは確か、生徒会執行部の男子生徒ではないだろうか。
咄嗟に彼女に近寄り、その大きな手で事もなげにキャンバスをつかむ。
もう一方の手はつまずきかけた彼女の腕をつかんでいた。
大丈夫? とでも訊ねたのだろうか。男子生徒が彼女を覗き込みながら、心配そうな顔をしている。
するとどうだろう。ここから見てもはっきりとわかるくらい、みるみる彼女の顔が赤くなっていく。
それを見た彼が、彼女をつかんだままの手を慌てて離し、これまた負けないくらい赤い顔をして、目を逸らした。
なんだ、そういうことだったのかと目を細め、ふふんと鼻を鳴らす。
凛香は窓にもたれかかり、今の彼らに重ね合わせるようにして高校時代の自分を思い出していた。