花蟷螂
私がその会社に入社したのは23歳の時だった。就活がうまくいかず、卒業ぎりぎりに決まったその会社は、従業員が30人ほどの小さな会社だった。ここで、私の新しい人生が始まるとドキドキした日々が今では懐かしい。あの時胸を躍らせ入社したこの会社で私が見たものは、美しく、そして恐ろしく狂った一人の女だった。
私が入社し一年が過ぎようとしたころ、ベテランの女性職員が寿退職することになった。後で聞いた話だが、小さな会社でも時々社内恋愛結婚で退職していく職員はいるらしい。そして4月、ベテラン職員の欠けたところに入ってきたのがあの女だった。
年齢は私よりも一つ上らしい。少し派手な印象があり、お世辞にもまじめなタイプとは言えない外見をしていた。わが社は服装は特に指定がなく、髪色や髪形もあまりうるさい方ではなかった。初めて出勤してきたときの彼女は「明るい茶髪で少し化粧も濃いな」と思った。
わが社では他者と会う事が多く、そのため身だしなみはきちんとすること、と言った決まり事があった。女性社員は毎日きちんと化粧をしていたため、表立ってそのルールが公言されることはなかった。そんな中、彼女の入社から一月後、定例会議で上司から「身だしなみはきちんとすること、特に最低限の化粧はすること」と注意があった。そのころ彼女はすっかり会社にも慣れ、少し手を抜くようになっていた。先輩からの評判和あまり良くない様子で女性社員からは「男性の前だけ張り切って仕事をする」との評判だった。実際私が見た彼女は、バイトの部下に仕事を任せ、自分はあまり業務と関係のない作業をしていた。しかし少しして近くに男性職員が来たと気づくやすぐ手元に仕事を戻しさもずっと取り組んでいたかのようにふるまっていたのだった。その露骨な豹変ぶりには思わず一緒にいた先輩と顔を見合わせて苦笑した。
話がそれてしまったが、慣れから彼女の勤務態度は徐々に緩んできたが、すぐにその緩みは身だしなみにも現れ始めた。化粧をせず出勤することが増え、次第にスッピンでの出社が当たり前となった。これには上司も困った様子であったが、個人的に注意するのではなく全体の意識の再確認も兼ねて月に一度の定例会議の場で注意喚起を行なった。もちろん他の職員はその注意が誰に行われているのか薄々察していた。しかし本人は自分が言われていると気づいていない様子であった。その後も彼女が化粧をして出勤してくることはなかった。そんな彼女が稀に化粧してくる日があった。社内行事や飲み会など、写真を撮ることがある日だ。露骨な彼女の行動に、上司をはじめほとんどの職員が「困ったやつが入ってきた」と思ったものである。
ある日そんな飲み会の場で小さな事件が起きた。私はその飲み会には法事で参加できなかったが、先輩から聞いた話によると、上司が酔っ払った勢いもあって「こういう日だけ化粧してないで、普段からきちんと化粧して仕事に来い」と直接注意したらしい。酒の場であり、ただ聞き流せばいいものを彼女は「それはセクハラだ」「男性の髭はいいのか」などと上司に噛み付いたとの事だった。
そんな小さな事件はあったものの、それからは上司も諦めたようで彼女の化粧のことには触れずに一年が過ぎた。それは初夏のことだった。
彼女と私の1年先輩の男性社員が不倫しているとの噂が流れ始めた。噂の出どころは分からないがどうやらそれは事実であるらしく、小さな会社にはあっという間に広まっていった。上司の耳にも入り、二人は注意を受けた。おとがめを受け、男性は自ら「別れた」と言いふらし、他者が不倫していると噂を流したりと火消しに躍起になっている様子であったが、数か月後、開き直ったのか同僚に彼女の愚痴を話していたらしい。もちろん彼女との関係が続いていることも口外していた。
彼はと言うと彼女の愚痴を言いながら、「結局は自分の妻が一番かわいい」「妻がいないと何にもできない」と愛妻家アピールも怠らなかった。実際ほかの職員の話ではとても理解のある良くできた奥さんらしい。彼はそんな奥さんとまだ4歳の子供を裏切り、「迫られて断り切れなかった」と彼女と関係を持ってしまったわけだが「遊びだから」と気持ち的には割り切っている様子であった。若くして今の奥さんといわゆる出来ちゃった結婚をしたため、遊び足りないという気持ちは大きかったのだろう。もちろんだからと言って不倫をしていいわけではないのだが。未婚の私にはわからない感情だ。
彼は必死に「別れた」と言いふらしていたが、彼らは仕事場で口論したり、時には平手打ちといった暴力を伴うケンカまで目撃されていた。それに耐えられなくなった男性が彼女の愚痴を周囲に言い始めたが、次第にその愚痴の内容は「ケンカになると車のガラスに頭を打ち付ける」「暴力は当たり前、噛まれた傷が残っている」など狂気じみた話が多くなっていた。そんな彼女が怖くて逆らえず、関係の清算ができないと言った雰囲気だった。手を出す相手を間違えた、と少し後悔している彼を見て少し同情した。
彼らの関係が明るみになって二年後のことだった。入社から5年目を迎えた私はすっかり中堅社員となり、特に変わりなく日々の仕事をこなしていた。そんな変わらない日々に、一つの大きな事件が起こった。
あれは6月の定例会議だったと思う。すべての議題が終わり、会議も終わろうかと言う頃、上司が「他に何かありますか?」と社員を見渡した。そこで彼女が「私、8月で退職します」と一言報告したのだ。会議に出席していた社員全員が驚き、叫び声をあげる。それから自分で話を進めない彼女に、ほかの職員が矢継ぎ早に理由を尋ねる。すると彼女はおずおずと「結婚します。」「お腹に子供がいます」「相手は(不倫相手)さんです」とポツポツと言葉を紡ぐ。実際はあまり言いたくない様子であったが、やはり尋ねられて黙っておくことはできなかった。
祝福のムードの中、私は気になることがあった。それは結婚すると言った彼女が微笑みながら涙を浮かべていたことだ。その表情は「不倫をしてしまった」「人に迷惑をかけた」「人を不幸にしてしまった」と言った懺悔の感情ではなかった。「やっと周りに知ってもらえる関係になれた」「やっと彼が手に入った」と言わんばかりの喜びさえ感じられた。その瞬間私は恐怖で言葉が出てこなかった。口々に祝いの言葉を述べる先輩たち。私には何がめでたいことなのか理解できず、ただただ会議が終わるのを待った。
その日の会議が終わり、私はすぐに帰路に就いた。祝っていた先輩は「生まれてくる子に罪はない」と話していたが、彼と前妻の間に生まれた子には何の罪があるのだろうか。むしろ前妻や子供にとって彼女のお腹にいる子供は「生まれてくること自体が罪」なのではないかとまで思ってしまうほどだった。他人事ながら気分の悪さを隠せず、もやもやとした気分で家に帰った。
「妻が一番かわいい」と言っていた彼の言葉は嘘だったのか、と思うと人間は簡単にうそをつく事が出来ると思ってしまい、人間不信になりそうだった。「呼吸するように嘘をつく」と言われたそんな資格はないのだが。
ちなみに彼の方は会社に残るらしい。こんなことになってもまだ退職しないとはよほど図太い神経をお持ちで…と揶揄したくもなる。実際は汚らわしいので顔を見たくないという事もあって、よほど用事がある時以外は話しかけないようにしている。表面的には祝福していた先輩方も思うところはあるらしく、少し距離を置いている様子であった。好奇心の強い人たちは積極的に彼らに話を聞きに行っている様子であったが。
慰謝料の話から養育費や新しい生活の話を聞いては噂好きな仲間の間で共有し、拡散する。私の耳にもいろいろな話が届く。まだ籍も入れていないうちから行動を徹底的に管理されているらしい。彼女からのDVはもちろん続いている。そんな彼だが一軒家を購入した、という話を聞いた。これから養育費や車のローンに加え家のローンも払っていくのか…。今後の彼の新婚生活に癒しはあるのか、彼の収入で生活していけるのか、と他人事ながらに心配になる。痩せこけた彼の姿を思い浮かべ、「家の購入は絶対あの女にそそのかされたんだろう」と言う先輩の話を聞いて、ふと思い出したことがある。カマキリは交尾後雄のカマキリを喰らい卵の栄養にする、と言った話だ。彼も彼女と子供の栄養となるため働き、身を削っていくのだろうと思うと少しかわいそうだなと思うこともある。
しかし彼女の誘いに乗り、断ることもせず欲望に身を任せたのは彼自身であり自業自得なのだ。私は「彼は嵌められたのよ、かわいそうに」と同情する気にはさらさらなれないし、生まれてくる子供も前妻との間にいる子供もきっちりと育て上げてほしいと願うばかりである。