坂東蛍子、静寂の極意を得る
川内和馬は教室の外に踏み出そうとしたその足を止め、眼前の光景に目を見張った。そこには容姿端麗な隣のクラスの才女、坂東蛍子が、死人のような無表情を顔に張り付かせ半目を開けて廊下の柱にもたれかかっており、そのすぐ隣では蛍子と犬猿の仲と噂されている桐ケ谷茉莉花が窓を開け放ち、ステンレスの窓枠に身を預け遠くの空を見ていたのである。茉莉花は屋外の方を向いているため表情は読み取れなかったが、和馬は心なしかその背中から殺気が滲み出ているように感じた。
他の生徒たちも和馬と同じ印象を持ったのだろう。彼女二人の前に差し掛かると戦々恐々と足を速めている。何しろこの二人が一緒にいることなどあり得ないのだ。いや、自分はクラスが違うため正確な二人の関係は又聞きから慮るしか無かったが、少なくとも目玉焼きにソースをかけて食すぐらいには確率が低いはずだ、と和馬は思った。
授業開始のチャイムと同時に突然坂東蛍子が両目をカッと見開くと、遠巻きから事の成り行きを固唾を飲んで見守っていた群衆がどよめいた。しかし彼彼女ら諸兄諸姉の多くが想像していたような、窓ガラスが3Dパーティクルさながらの美しい姿で放物線を描きながら立て続けに割れていく様や、頭上の蛍光灯が狂おしく揺れて苦しそうに息を引き取る声、その他廊下のありとあらゆる物と生きとし生ける生命がその本質を歪めるような出来事は何一つ起こらず、蛍子は凛とした、またどこかスッキリとしたような表情で茉莉花とは逆の方向に、振り返る事無く歩き去って行ったのだった。
川内和馬はホッと胸を撫で下ろしながらも、目玉焼きとソースが混ざり合う瞬間を少し見てみたかったという気持ちを心の隅で燻らせながら止めていた足を教室へ戻した。
時は十分前に遡る。二時限目の終わりの休み時間、坂東蛍子は手頃な廊下の柱を見つけるとそっと寄りかかり、精神を集中し始めた。
坂東蛍子は就寝前の時間をお気に入りの兎のぬいぐるみ“ロレーヌ”との歓談にあてているのだが、ここ暫くロレーヌは修繕のため知人のアンティークショップに預けてしまっていたので一人心細い夜を過ごしていた。その分早く眠って気を紛らわそうともしたが、しかし蛍子はその習慣から寝る前に何かをやっていないと気を落ち着かせることが出来ず、仕方なしに適当なゴシップ誌を買って読むことで間隙を満たしていたのだった。ゴシップ誌では巻頭で「快眠!安心!自己催眠!」と題された自己催眠方法が特集されており、蛍子はその売り文句に魅かれてこの雑誌の購入を決めた。ベッドに寝そべりながら黙々と記事を読破した坂東蛍子は、その日の内に自己催眠術を会得し、枕に頭を預け指を鳴らした途端快適な安眠の中にその身を沈めていくことに成功したのだった。坂東蛍子は実に影響され易いタイプの少女だった。
退屈な二時限目の最中、ゴシップ誌の特集にはもう一つの自己催眠術があったことを蛍子は思い出していた。それは「瞑想状態に入ることで雑踏の騒音を消し去る」というものである。考え出した五秒後には坂東蛍子は授業後にそれを試す決心を終えていたし、授業が終わった三秒後には廊下の雑踏を求め教室を飛びだしていた。
記事にはこう書かれていた。第一に催眠状態の体を預けるために寄りかかれる場所を見つける。第二に目を閉じ頭の中で周囲の人物の顔をなるべく沢山イメージする。第三に鳥かごに入った友人を一人想定し、思い浮かべた人物一人一人をその友人に“貸して”いき(「彼彼女を○○に貸そう!」と決め台詞を念じるとやり易い)、最後に残った貸し出し先の友人を天に貸してお終い、精神は覚醒させつつも周囲の雑踏を完璧に排除出来るとのことだった。ちなみにこの方法は生贄の儀式をベースとした呪術の一種を改竄して作られた危険なものであり、特集記事の作成者であるライターネーム綺羅星サユリはある邪悪な意図でこの日本に潜伏する秘密結社の一員である。実践はおすすめ出来ない。
坂東蛍子は記事の内容を必至に思いだそうとしていた。蛍子は快眠に関する記事以外は殆ど目を通していなかったが、ゴシップ誌は今朝がたゴミとして処理してしまったため脳内のおぼろげな記憶を辿っていくしか催眠実践の手立てはなかった。
(まず、周囲の人物を思い浮かべる・・・)
真っ先に浮かんだのは桐ケ谷茉莉花の顔であった。金髪柳眉の桐ケ谷茉莉花。鎧袖一触の桐ケ谷茉莉花である。
坂東蛍子は桐ケ谷茉莉花のことが嫌いだった。何故か同じクラスになり顔をつき合わせたその時から休むことなく腹が立っていた。しかし、好きだということに理由がいらないように、嫌いだということにも理由はいらないはずだ。何より嫌いな理由など、近頃松任谷理一が茉莉花とよく話しているように思える、それだけで蛍子にとっては充分であった。最近あまり茉莉花が噛みついて来なくなったことも蛍子の癪に障った。
とりあえずまず茉莉花を意識から消してやろう、と蛍子は思った。
(ええと、たしか次は呪文を唱えるんだったわよね。何に仮装させようかしら)
仮装といったらやはりハロウィンよね、と蛍子は頭上に電球を浮かべ、廊下で一人ニヤリと笑った。この時たまたま廊下を歩いていた図書委員の藤谷ましろは憧れの蛍子の姿を見つけて声をかけようとしたが、明らかに何か邪悪なことを企んでいる坂東蛍子の表情に臆し、目的を果たすことが出来なかった。これで三日連続で気を逃した、とましろは肩を落とし図書室の方へ歩き去っていった。
(「桐ケ谷茉莉花をカボチャに仮装」、「桐ケ谷茉莉花をカボチャに仮装」・・・)
途端に頭の中で仁王立ちしていた茉莉花はカボチャの被り物をした陽気な少女に姿を変え、天真爛漫に踊り出した。これに倣って蛍子は他の人物たちも次々に仮装させパーティの会場に放り込んでいく。脳内で元気に跳ねる彼女たちの不可思議なダンスを見て陶酔している内に、坂東蛍子は自身の内から雑念が晴れていくのを感じていた。催眠とはまったく関係ないところで、坂東蛍子は独自の立禅の極意を体得しつつあった。
食堂で間食を購入してきた桐ケ谷茉莉花はその帰り道、廊下の柱によりかかり半目を開けて脱力している坂東蛍子を目撃した。通りかかる生徒たちも少し不審そうな目で蛍子の様子を窺っている。またあの女は何やらやっているんだな、と茉莉花は溜息をついた。坂東蛍子は自身の容姿と才気にプライドがあるため普段は人目を気にした行動をとっており、清楚で上品な自分を演出してはいるが、夢中になるとすぐに盲目になってしまい周囲の視線を忘れてしまう杜撰で危うげな人物であった。人気もあるが、誤解も多い。彼女のそういった奔放な振舞いを見る度に、茉莉花含め蛍子の性格を理解している数名の人物は頭を抱えるのであった。
桐ケ谷茉莉花は坂東蛍子のことが嫌いだった。よく分からないが腹の立つ相手であった。しかし、好きだということに理由はいらないが、嫌いだということには明確な理由があるものだ。茉莉花はそう考え蛍子を嫌う絶対的な理由を探してみたが、一つとして思いつくことが出来なかった。もしかしたら良く分からないというだけなのかもしれない。人が何かを恐れ忌む感情は、決まってその対象をよく分かっていないがために生まれる。先日坂東蛍子という人間の一端を理解したことで、彼女に対する自分の怒りはこれに近い類のものなのかもしれないなと茉莉花は思うようになっていた。
蛍子は完全に自分の世界に入っているようだった。瞑想をしているようにも見える。しかし衆目の蛍子への心配そうな視線は増えていく一方であった。それもそのはず、蛍子は廊下でたった一人項垂れるように壁にもたれ、生気の無い目を顔の奥でちらつかせながら死んだように動かないのだ。そんな人間が目の前にいたら誰だって注目する。ましてやその人物が学年のアイドル坂東蛍子となればあらぬ噂が立ちかねない。
やれやれ、と思いながら桐ケ谷茉莉花は周囲のざわめきを余所に蛍子のすぐ隣の窓を開け放ち、そこに肘をついて買って来た揚げバナナを食べ始めた。季節は未だ麗らかな春の行間、冬の名残もすっかり何処かへ去って過ごし易い日々が続いていた。桐ケ谷茉莉花はバナナを一口頬張ると呑気な空を見上げ目を細めた。