1夜目
お題:ロシア式の青春 制限時間:15分
ヘッドホンから流れてくるのは静かな映画音楽。先週観た映画の音楽が気に入ったのでサントラを買った。冷たい湖面を眺めていると、少しずつ落ち着いてくる。
今夜も、彼は来るのだろうか。
そう考えた矢先に、突然目の前に彼が現れたものだからわたしは思わずびくりと肩をすくめてしまった。
イヤホンを取り、ベンチの左端側に身体をずらす。
「何を聞いていたんですか」
穏やかに尋ねられたその声は、低い大人の男性のものだ。
「映画のサントラです。この間観た作品がちょっと気に入っちゃって」
「へえ、どんな映画ですか」
そう言いながら彼はリュックからいつものお茶のセットを出す。
魔法瓶とジッパー付きのビニール袋に入れた三角形の紅茶の袋、ウォッカとロゴの入った小瓶、それからジャム。
「ジャム?」
「ええ、今夜はロシアン・ティーです」
魔法瓶の蓋にウォッカが注がれ、その中でジャムもくるくると混ざる。彼は魔法瓶に紅茶の袋を落とし、やがてゆっくりと紐を引き上げた。
「――準備してきました?」
わたしは頷ぎ、小さなカップを二つ取り出した。家にあるカップの中で、一番大人っぽいものを選んできた。
その中に彼はウォッカ入りのジャムを入れ、紅茶を注いだ。
「これが、ロシアンティー……」
お茶のことなんて全然分からないし、興味ない。だから彼が毎回披露してくれるお茶は、わたしにとって新鮮だ。
ちょうど人一人分を空けて、静かにロシアンティ―を飲む。
月明かりの湖面の前で大人の男の人とお茶会をするようになったなんて、何とも不思議な縁だと思う。
きっとこの時間だけが、今のわたしが静かに過ごせるひとときだ。
* * *
彼と初めて出会った夜、わたしはいつものように公園の池の前のベンチに座っていた。
年の離れた小さな弟が近くの空手道場に通っている。
わたしはまず道場に弟を送った後、待ち時間の大半をこの公園で潰す事にしている。ここは規模が大きくランニングロードもあるため、ジョギングやウォーキングをする人達で夜でもそこそこ賑やかである。あまり人目が多くない、けれど安全の範囲内でいい場所はないかとうろうろした挙句この場所に決めた。
外灯の明かりの下、ぎりぎり文字が読めるのでいつもは英単語の暗記だったり数学の計算問題を解くのに充てている。
今年、わたしは受験生だ。成績は良い方だが勉強する時間が取れないため、こうして隙間時間を見つけてちょこちょこと復習をしている。
始めは道場の隅で勉強をしてみようかと考えたのだが、他の保護者の目も考えてやめておいた。次に公園傍にあるカフェに入ってみたのだが、一杯が軽く500円を超えるお金を一時間程度のために払うのは、学生の私には贅沢な気がした。
安くて落ち着いて集中できる場所。消去法で残されたのは公園のベンチしかなかった。
けれどその夜はいつものように勉強する気なんて起きなかった。
母の四十九日が過ぎ、それまでバタバタと気を張っていた日々のせいで、わたしは泣くタイミングを失っていた。
元々気が強かったのもあるし、病院に通って母の傍に付いたり、帰宅時に学童クラブに待機する弟を迎えに行って、家では母の代わりに全ての家事をこなしていた。
冷たい水のせいであかぎれができた。お湯に浸けると余計染みたのでそのまま冷たい水を使い続けた。ビニール手袋といった便利なものを使えばいいと知ったのは、つい最近のことだ。
ぽろり、と流れた涙がそのまま頬を冷たく伝う。
ああ……やっと、泣けた。
よかった、とそのまま声を押し殺して泣きじゃくろうとした、その時だ。
わたしに、カフェオレの缶が渡されたのは。