3歩目
お題:かっこ悪い会話 制限時間:4時間
「ただいまー」
私達が帰宅してから間もなく、父も帰ってきた。がちゃり、とドアが開くのが聞こえたのと同時に、ドタドタと三人で玄関に向かう。
「おかえりなさい、お父さん」
「おかえりー父ちゃん」
「お邪魔しています」
疲れ切った顔で鞄と荷物を置いていた父は、先生の姿を認めた途端、鬼の形相へと変わった。
「……なぁんでお前がここにいるッ!?」
靴を履いたまま腕を振り上げて襲い掛かった父に私は悲鳴をあげた。だが、先生は身体を捻るようにしてそれを避け、父の拳は空を切った。
「落ち着いてくださいお義父さん」
「お、おお、おおおおとうさんだとぉおおう!?」
父は目を限界まで開き、ぎりぎりと歯を軋ませた。
「お前にそんな事言われる筋合いはないッ! 帰れ! 留美、なんでこんなヤツ上げたんだ! おい隆、塩持ってこい塩!」
「お父さんってば! 話を聞いて!」
「アジシオでいいー?」
「隆!」
その後わあわあとひと悶着があった後、話があるからと言い聞かせて父をリビングのソファに半ば無理矢理座らせた。緊張しつつ、全員で顔を合わせる。父と弟、先生と私がそれぞれ並び向かい合う形だ。お茶を置くと再び父が先生に対してパシャリとやる可能性があるので、ローテーブルの上には何もない状態だ。
「おいっ、何でお前が留美と座るんだッ!!」
座った並びを見て再び父が点火しかけたので、慌てて本題へ入る。
「お父さん、お願いだから先生の話を聞いて」
「コイツの言う事は何も聞かんぞ!」
「――七村さん、本日は大切なお話があり伺いました」
先程の『お義父さん』呼びで懲りたのだろう、先生は父を苗字で呼びかけてから頭を下げだ。
「今回の件では多大なご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。教育者としての立場を考えず私情に走り、留美さんや七村さん、それから隆君までも傷付ける結果となってしまい――」
「えー、オレ、別に何も傷ついてないぞぉー」
「隆っ」
しっ、と人差し指を立てて睨むと、隆はぺろっと舌を出した。
「先程留美さんと話し合ったのですが、一旦別れる形をとらせていただくことにします」
「馬鹿もんッ! 一旦どころか永遠だッ!」
「――ですが。
二年半後に留美さんが卒業された暁には、正式にお付き合いを申し込み、そのまま結婚をさせていただけたらと考えております」
あまりにも想定外だったのだろう。
父の目と口は限界まであんぐりと開き、そのままピシリ、と固まってしまった。
「勿論、在学中は留美さんに対し一切の私情を持たず一生徒として接します。留美さんには先に話を通して了承していただいています。
――七村さん、どうか留美さんを僕に下さい。
よろしくお願いします」
先生は膝に付くほど深々と頭を下げた。
……どきどきしながら父を見る。
一体どんな怒り方をするのだろう……。
「…………」
父は上を見上げていた。
口を引き結び、ぱちぱちと瞬きをしながらも、固く握った拳はぶるぶると震え、何かの衝動に耐えているようだった。
私と先生が固唾を飲んで見守っていると、やがて、
「…………本気か」
父が声を震わせながら呟いた。
「はい! 本気です!」
しっかりした声で答える先生もまた、ぐっと拳を握っている。
「…………留美。お前の気持ちはどうなんだ」
「わ、わたしも先生と結婚したい!」
慌てて自分の意思を告げる。
「……………………そうか」
暫しの沈黙が流れた。
眼鏡を取ると、父は空いた手で顔を擦った。ごしごしと幾度も擦ったその後に離した瞳は、真っ赤に充血していた。
「そうか…………、嫁に行ってしまうのか……」
それは、今まで聞いた事がないほど、ぽつんと寂しげな声だった。
父の呟きを聞いた瞬間、高揚していた気持ちが一気に冷める。
そうだ。もしわたしがお嫁に行ってしまえば、父と弟を置いていくことになるのだ。
いつも遅くまで仕事をしている父。
強くなってわたしを守ると言ってくれている弟。
お母さんとの思い出が残ったこの家とも。
みんな、みんな離れてしまう。
……そんなの、嫌だ。
「――僕がこの家に入ります」
先生が力強い声でそう言った。
びっくりして見上げると、決意に満ちた表情で先生は父を見ていた。
「留美さんがこれまでしっかりと家事をこなし、家を守ってきた事は知っています。彼女が七村さんや隆君を誰よりも大切に想っている事も分かっています。
僕は、そんな留美さんだから好きになったんです。
ですからこのまま、この家を、家族の皆を守ってほしいんです」
「せ……せ……」
「――それでいいよな?」
先生が私を見下ろした。
返事を言葉にできない代わりに、わたしは先生の手を取った。
駄目だ、堪えなきゃ。
ここで泣いてしまっては、せっかくの空気が――。
「ぐわあああああっ!!」
突如絶叫があがり、父が立ち上がった。
両手で顔を覆い、肩をぶるぶるさせながら父は慟哭していた。
「畜生……っ、ぢくじょおおお……っ」
「お、お父さん……」
「なんで……なんでこんなヤツに……」
唸るような声を絞り出し、父は涙を流していた。泣きながら、リビングの棚からウィスキー、書架から分厚い私のアルバムを出してきて、先生の前でページを開いた。
「見ろぉ……っ。るみはな゛ぁ゛……ッ、ぢっぢゃいごろがら、せがいいぢ、かばいかっだんだぞぉ……っ!」
「分かります、可愛いです、世界一可愛いです」
先生が食い入るようにしてページをめくりながらうんうんと頷いている。
わたしは少しほっとして、父にはグラス、先生と弟にはお茶を取りに行った。麦茶と氷をいっぱいに詰めたアイスペールとグラスを置いたお盆を持って戻ってくると、父は先生の横に座り、熱心に写真を指差し語っていた。
頷いていた先生の頭が、一枚の写真の上でピタリと止まる。つられてそこを見ると、庭で裸のままホースのシャワーを浴びて笑っているわたしの写真だった。
慌ててバッとその上にお盆を置くと、残念そうな顔をされた。
やっぱロリコンなの、先生!?
「ほら、みでみろぉ、ごの、妻のヴェールをがぶったじゃじん。ごのよのものとはおぼえん愛らじざだぉ……」
父はウィスキーの水割りをハイペースで飲み涙を流しながら、先生の背をばんばん叩く。
「天使です! 最高です!」
「ごの時はなぁ……『ぱぱのおよめさんになる』って言っでだんだぞぉ……ううっ」
思い出したのだろう、父の涙からますます大量の涙が流れだし、ぐしゃぐしゃに顔が歪む。
そんな頃もあったな、と懐かしく思いながら、わたしはゲームをしている弟にもう寝るようにと言い渡し、酔いつぶれるであろう父のために毛布を取りに二階へと向かった。
「今日はごめんね」
あれからほどなく酒に弱い父は撃沈し、今はいびきをかきながらソファの上に横たわっている。私は先生が車を停めている近所のコインパーキングまで見送りにきていた。
ごとん、ごとん
自動販売機で微糖コーヒーを二缶買って、車に乗り込む先生に手渡した。
「お、サンキュ」
「ちょっとだけ、隣に座ってもいい?」
頷いてくれたので、助手席に乗り込む。
「少しドライブするか。ここだと近所の目もあるだろ」
駐車場を出て景色が変わるのを眺めながら、二人で黙ってコーヒーを啜る。
「――今日はありがとう」
「うん」
「ごめんね、うちのお父さんったら、やりたい放題でうるさくて。
先生が凄く頑張ってくれてたから、申し訳なかった」
「いや」
少し迷ったような雰囲気の後、
「――俺、父親いないんだ」
と先生が言った。
「物心つく前に、母親と別れちまったらしくてな。
だから、なんつーか、留美の父さんを見ていると、『ああ、なんか本当に大切に育てられたんだなあ』ってのが伝わってきてさ……」
赤信号を待つ間、とんとん、と指でハンドルをノックしながら先生は続ける。
「だから、こんな家に入りたいって、そう思った」
信号が変わり、再び夜景が流れていく。
「……お父さん、心配性だよ?」
「うん。知ってる」
苦笑する横顔は、嫌がっていない。
「今はまだ許してくれなくてもさ、俺、絶対留美を嫁さんにしてみせるから」
「……うん」
「だから、何度でも挨拶に行くよ」
「……うん」
コーヒーを持つ手があったかい。
先生といるこのひとときが終わるのが惜しくて、わたしはずっと赤信号が続けばいいのにと願っていた。