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お題:見憶えのあるサーブ 制限時間:2時間
「お父さんやめてぇっ!」
留美が慌てて車を降り、運転席側に駆け寄って男にしがみつく。
「離しなさい留美! こいつ、娘をたぶらかしやがって……っ!」
男は立て続けに拳を振るい続け、俺はその全てを受けた。最初の拳を受けた直後から、避けて反撃をする事はできた。相手のパンチは感情に任せただけで正確さとはほど遠い。
だが留美が「お父さん」と呼んだ事で彼女の父親であると確信した。
ぎらぎらと怒りで目を血走らせている形相は、三者面談の時の穏やかな印象は欠片も残っていない。
そうだろう。もし仮に俺が留美の親だとしても、同様に殴りつけていた筈だ。
大切な娘が暗い駐車場の隅の車内で、年が離れた男に(頬とはいえ)キスされた。
しかも担任。
激昂して当然である。
それだけ俺のした事は問題行動なのだ。
このまま学校に報告されれば、処分は免れない。
「やめっ、も、だめぇ……!」
留美は泣きながら間に割り込み、ドアの外から俺を庇おうとして抱きついてきた。
「!! どきなさい留美!」
「いやっ!」
「どけ!」
「い、やぁあああっ、せんせぇっせんせぇっ!」
力任せに引き剥がされながら留美は俺に手を伸ばしてきた。その指先を掴もうとして――、俺は拳を握り締め、膝に戻した。
ドアを開けて車を降り、深々と頭を下げる。
「非常に軽率な行動を取ってしまい申し訳ございません。
担任ではありますが、留美さんとは真剣な交際をさせていただいています」
再び、殴られた。頭を下げていた状態だったためバランスを崩し尻餅をつく。そこに馬乗りになって、七村さんは更に何度も俺を殴りつけた。
「……ざけやがってえええ……っ! どんな男が相手かと思いきや、よりによって担任だとおおっ!? よくも……よくもうちの純情な娘をたぶらかしてくれたなあああ!
今の教師はどいつもこいつも破廉恥で節操の無い輩ばかりか! こんなんじゃ安心して娘を学校に通わせられないじゃないか! 最低だ! 最悪だ!」
怒鳴り散らされた最後の台詞に、
「違います!」
と思わず拳を止めて持ち上げた。
体力、腕力でいえば日頃鍛えている俺の方が上だ。ぐぐぐ、と怒りに任せて下ろそうとする相手の腕を止め、懇願する。
「確かに非常識であり全面的に非があるのは私です、申し訳ありません!
ですが! 教師全般がそうなのではありません! どの教師も皆、生徒の学力と精神の向上を望み、日々勤めております! どうか、その点だけは誤解をされないでください!」
「――うるさいっ」
吐き捨てるように叫ぶと、そのまま一瞬の間が空いた。
「おい。家まで車を出せ。人目がある」
立ち上がり、七村さんは少しよろけつつも俺の車に乗り込んだ。
確かに周りを見れば、通りかかった人々がちらちらと俺達の方を見ている。もしかしたら俺や彼女を知った人に見られてしまったかもしれない。
俺は立ち上がり、うずくまって泣いている留美の傍に寄った。肩に手を触れようとして七村さんの目がある事を思い出し、
「――行こう」
と声を掛ける。
「……め、なさい先生……ごめんなさい先生……」
涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らし、留美は車に乗せるまで幾度も俺に謝ってきた。
ようやく呼ばれ始めた「幸助」ではなく「先生」と呼ばれた事で、そもそも恋愛感情など持ってはいけない関係だったのだと、あらためて思い知らされた気がした。
七村家の中は突然訪れたにも関わらず掃除が行き届いていた。リビングに入ると留守の間に使ったのであろうゲーム機やソフト、スナック菓子の空袋などが散乱していたが、それ以外はどこも綺麗なものだ。
これらをまだ高校一年生の留美が懸命に維持しているのだと思うと、より彼女を愛おしく感じた。
だが、そう伝える事すらもうできなくなるかもしれない。
「あれぇ、お客さん?」
トイレから戻ってきたらしい小柄な少年が、何気なく俺の顔を見て目を丸くした。何発も殴られた後だ、腫れが目立っているのかもしれない。
「――座れ」
ぶすっとした態度で七村さんがソファを指す。一礼し、向かいに七村さんが座ったのを見届けてからそれに習う。
「先生……大丈夫?」
留美が固く絞った冷たいタオルを持ってきて、俺の頬に当ててくれた。
「そんな事をするんじゃない!」
「だって……」
「お前もだ、せめて自分で押さえんか!」
留美に礼を言ってタオルを受け取り、痛みの強い右頬に当てる。
「娘が私のパソコンに『水族館デート』と入力して閲覧してそのままになっていたのを、昼間仕事をしようと起動して気付いてね。
GPS機能を使って位置を確認し、近所に止まったので見に行ってみたらこのザマだ……」
苦々しい顔で七村さんが呟く。お茶の準備をしながら、留美がそわそわと心配そうにこちらを伺っている。
「……あんたも知っての通り、我が家には『母親』がいない。代わりに留美が毎日家事し、家族の面倒をみながら学業をこなしている。
それを私がどれだけ心苦しく、且つ感謝していても、仕事で手一杯な為代わってやれないんだ。せめて、娘には幸せな人生を歩んでほしいと願い、30になるまでは嫁にも男にも手を出させないと誓い、その日の為に少しでも蓄えを残してやろうと働いてきた。
それを、だ」
留美が置いたお茶のグラスを掴むと七村さんは立ち上がり、俺に向かってばしゃりと茶をかけた。
「お父さんっ!?」
留美が悲鳴を上げ、タオルを取りに走っていく。
「よりによって、担任がだ。大事な娘をかどわかし、あまつさえ接吻までするとはなあ!
お前には倫理観が無いのか!?」
――お前には倫理観が無いのか。
留美と付き合う事になるとは夢にも思わなかった頃。居酒屋にて友人の律に「好きなら付き合え」と言われた時に返した言葉が、そっくりそのまま自分に跳ね返ってきた。
ああ、そうだ。
何が、『彼女を守ってやりたい』だ。
その場の感情に流されてはならなかった。
節度ある距離を取り、三年間、彼女をそっと遠くから見守っていれば良かったのだ。
本当に彼女の事を好きならば、それから始めても遅くは無かった筈だ。
挙句の果てに、俺は彼女も親御さんも、共に深く傷付けてしまった。
ぽたぽたと頭から茶を滴らせつつ、俺は七村さんに土下座をした。