☆☆omake☆☆ (SIDE:七村父)
今回のお話は七村のお父さん視点での前回(♥♥♥3)です
「……さん、遅刻しちゃう」
遅刻?
何がだ……?
……ああ。そうか……さっき瞼を閉じたと思ったら、もう朝なのか……。
張り付いている瞼をなんとかこじ開けると、覗き込んでいる娘の留美の顔がぼんやりと見えた。
「今……何時だ?」
渡された時計の文字盤を見て、潰れかけていた目が一気に開く。
「こりゃいかん! 朝一で会議があるんだ!」
がばっと飛び起きると、私は低血圧の寝起きにしては瞬足といっていいほどの速さで階段を駆け降りた。おっと、4段前であやうく足を踏み外しそうになってしまった。
洗面所に飛び込み力いっぱい蛇口を捻るとジャバジャバと顔を洗い、タオルで拭かずにそのまま手と顔の水滴を寝ぐせだらけの頭に擦り付けた。ブラシで無理矢理髪を撫でつけ、歯ブラシに、にゅん、と歯磨き粉ペーストを絞る。出し過ぎた、ブラシ部分が見えない。だが戻す時間ももどかしかったため、5秒程度でゴシュゴシュと歯磨きを終えると出しっぱなしの蛇口から水をすくってゆすいだ。出る時に一瞬息子の隆がいたような気がしたが、眼鏡が無いためよく見えなかった。
「やばいやばいやばい……!」
階段駆け上がり寝室に入って眼鏡をかけると、いつものようにシャツ・スーツ・靴下・ネクタイがきちんと出してあるのが見えた。偉いぞ留美。
バタバタと着替えを済ませて再び階段を降りる。
「おい留美、弁当あるか!?」
「キッチンに置いたままだから、ちょっと待っててー!」
脱衣所から声がしたが待つ時間なぞ私には無い。駆け足で台所に飛び込み大きな弁当箱を包んだクロスを掴んだ。よし。
「いってきます」
革靴に足を突っ込み踵を降ろす前に玄関扉を飛び出した。
「! お父さん、ちょっと」
バタン。留美が何か言いかけたようだが、私に気にする余裕は無かった。
朝会議には何とか開始直前に滑り込むことができた。ここまで遅れそうになったのは久しぶりの事で、普段はこれでもきちんと早めに出社をしている。
「七村部長、夜も遅いのに大丈夫ですか?」
と部下から心配されるくらいだ。それもこれもひとえに留美が全ての準備を先回りしてくれているおかげだ。留美がいなかったら、朝が苦手な私はまず間違いなく数度は遅刻をしていただろう。
仕事をしているとあっという間に時間が過ぎる。正午のチャイムに、もう昼になったのかと私は壁時計を見た。ありがたく弁当を食べる事にしよう。
夏休みに入ってからも、留美は毎日私のために弁当を作ってくれている。娘の作った弁当は、何というか、親の欲目を抜きにしても実に旨い。彩りと栄養を考えているのがよく分かる、しっかりとしたあの子らしい弁当だ。
「部長、娘さんを僕にください!」
「これならいつでもお嫁にいけますね」
等、部下達がよく覗きにきては羨ましがる度、密かに誇らしく思う。そうだ、留美は私には勿体無いほど出来のいい娘だ。仕事にかかりっきりの私の代わりに家事の全てを引き受けて家を守り、隆の道場への送り迎えも毎回バスに乗って一緒に行ってくれている。勉強だって空き時間にコツコツやっているため成績も優秀、見た目も私ではなく亡くなった妻によく似ている。
その留美が。
いつかは嫁に行ってしまう。
部下の言葉を初めて聞いた時は、潤む目を誤魔化すのが大変だった。
あの子はまだ高校一年生。年は16になったばかり。
今はまだ男の影など一切無いが、もう10年も経てば流石に留美は何処かの男と交際している頃だろう……。
いかん、想像したら鼻の奥がツン、としてきた。花粉用の柔らかティッシュがここに……あったあった。
ちーん、と鼻をかみ、いや、30までは清いままでいてくれと心から願う。
妻の忘れ形見である娘がいつか遠く旅立つその日までは、父親としてろくな事はしてやれていないが、せめて大切に見守っていようと誓う。
誓いながら、娘手作りの弁当を取り出し、クロスを広げる。蓋を取ったところで、私は文字通り固まった。
アスパラのベーコン巻とえのきだけの豚肉巻き。ブロッコリーとプチトマト、唐揚げ、私の好きな卵焼き。チーズとアメリカンチェリー。ご飯は約半分が海苔弁だ。いつもと変わらぬ娘の弁当。
だが、いつもと全く違う事が二点ある。
一つは、 ご飯の上にまんべんなくハムで作った桃色のハートマークが飛び散っていたこと。
もう一つは、お子様ランチについてくるような旗にピンクでハートマークが描いてあり、その中に『すき♡』と書いて唐揚げに刺してあったことだ。
一瞬呑気に(おおっ)と照れ臭く喜んだものの、
(――待てよ)
と私は気付いた。
おかしな点が二つある。
一つは、留美の性格だ。彼女がこのような可愛らしい弁当を作ったのは初めての事だ。別に今日が何かの記念日というわけでもない。おまけに私の記憶が確かならば、以前テレビを観ていた時、『キャラ弁』という言葉と映像が出た際、
「そんな事やる意味が全く分からない。ねちねちと手が振れる度雑菌が増えそうだし、見た目も美味しそうなわけじゃないし、ああいうのって結局親の自己満足と見栄だよね」
と彼女は辛辣なコメントをしていた筈だ。
もう一つは、妙に色気ある飾りな事。ピンクのハートがたくさんなのも勿論だが、『すき♡』と書かれた旗が私は非常に気になった。彼女の性格を考えれば、もし父親に対する言葉なら、『お仕事おつかれさま』だの『いつもありがとう』といった、労わりの言葉を選ぶ筈だ。これではまるで新婚夫婦みたいではないか――。
そこまで考えて、私は今朝の光景を思い出した。
台所に置いてあった弁当が、4つであった事を。
うち、2つが大きなサイズであった事を。
ガターン!
私は勢いよく椅子から立ち上がった。勢い良すぎる余り、カラカラカラ……と随分と遠くまで椅子が移動していったがそんな事はどうでもいい。
(る、留美が、私の大切な留美が……!)
「部長、どうされたんですか?」
部下の若い女性が驚いた顔で椅子をひいてきてくれた。慌てて私は弁当にクロスをかけて中を見えないようにする。
「さ、さ坂下君」
「はい」
「もももっもし、君が交際している男性に弁当を作ってやるとしたら、どんな飾り付けをするかね」
「飾り付けですか? えーっと、やったことあるのは、可愛いカップやバランを使う事と、あとは、卵焼きを切ってハートマークに見えるように入れたり、その程度でしょうか」
「ハートマーク……」
「ほら、ハートマーク入れるのって恥ずかしいけど可愛いじゃないですか。つい何かしら愛情表現みたいな感じで入れたくなっちゃうんですよね」
弁当の飯の上は一面ハートマークが飛び交っていた。
「その、旗を立てたりなど、しないのかい?」
「あ、やったことありますー。『すき(ハートマーク)』って真ん中にちっちゃく書いたりして。付き合いたての頃だったんですけど、今思えば浮かれてましたね、ふふっ」
「うが――――ッ」
突然の私が頭を掻きむしって叫んだので、坂下君は「ひっ」と言って後ずさった。
「つ、付きあいたて……男……はーとまーく……」
「ぶ、部長、どうされたんですか? ぶちょうお!?」
私は胸を押さえながらギリギリと力いっぱい歯ぎしりをした。血の涙が出せるものなら、とっくにぼたぼたと零れ落ちているだろう。
「部長、何故泣かれているんですか!?」
ああ、留美。健やかに育ってほしいと願っていた、私の小さな娘。
それがまさか。
男が。
男ができたのかああああ! 留美いいいい!
私は携帯電話を取り出すとビルの屋上に向かって走った。
「七村部長!?」
部下達の驚く視線を背に私はビルを駆け上る。
留美に今すぐ確認しなければ。
そうして、変な虫が付いていないか調べなければ。
視界が滲む。
辛い。
「生まれてきてくれてありがとう」
産院で、初めて新生児だった留美を抱いた時にそう言って泣いてしまった事を思い出す。
「るみ、ぱぱのおよめさんになる」
そう言ってしがみついてきてくれた小さな手。
「大丈夫、七村家の家事は任せて。父さんは安心して働いてきてね」
妻が入院し、亡くなっても、そう言って励ましてくれた留美。
夜中に隠れて泣いている声が聞こえていた留美。
幸せになってほしいから、「嫁にはやらん!」と言った、赤ん坊の頃の言葉は撤回した。
だが、時期というものがあるだろう!?
せめて、せめて30までは、留美。
留美いいいい!
「うう……っ」
普段運動をしないため、こんな短距離を走っただけで息が切れて胸が痛い。
苦しさに、胸が張り裂けそうだ。
屋上にて、私は眼鏡を取り涙をスーツの袖で拭いながら、娘に電話をかけた。