5杯目
お題:かたい唇 制限時間:1時間
帰宅して、溜まった家事を全て済ませてから、風呂に入った。濡れた髪のまま部屋に入り、課題をやろうと机に向かってみたものの、一向にペンが進まない。
ぽすん、とノートに顔を突っ伏し、目を閉じる。左手がほんのりと熱を持った気がした。
手を繋ぎたいと言ったのは、自分。
けれどそれは、少しだけ指先を触れ合わせるとか、その程度の意味合いだった。
先生の指が入り込んできた時、不覚にもぞくりとしてしまった。
合わさる掌を意識する程に汗をかき、だけどその手を振りほどくこともできなくて。
結局、あれからわたしは一度も顔を上げられなかった。
悔しい。
自分が子供だと思い知らされてるみたいで、悔しい。
だけど、それよりもっと悔しいのは――。
目を開けながら指を伸ばし、飴がけのような緑のマグカップに触れる。
「……ちょろい女だな」
プレゼントをもらって、恋人みたいに手を繋がれて。
それだけで、もっと先生の事を好きになる自分の単純さが悔しかった。
これが荻野先生みたいな大人の女性なら、同じことをされても平然としているんだろうか。
そう考え、同じことをする二人の姿を想像したら、むかむかと腹が立ってきてしまった。
「――ああ、もうっ」
先生の声が聞きたい。
ツキツキみたいに頭を撫でられたい。
今日みたいに手を繋いでほしい。
いつかじゃ駄目だ、今すぐ。
今すぐに。
先生の電話番号もメールアドレスも、自宅の住所さえ知らないのだと、ようやく今になって気が付いた。
夏休みだから、明日になってその姿を見ることさえできない。
(ずるいよ先生。なんであんな事したの?)
一度覚えてしまったら、もう駄目だ。
もっと、もっと欲しくなる。
その夜、病気なんだろうかと不安になるくらい、わたしはずっと先生の事ばかり考えていた。
それまでの私は、恋といっても淡い片想い程度のものだった。それが恋という感情だと理解し、分かった気になっていた。
なのに、今の自分は暇さえあれば先生の事を想っている。
気持ちのやり場をどこに持っていけばいいのか分からなかったため、わたしはとりあえず徹底的に家事をやる事にした。
丁寧に料理を作る。何種類ものサンドイッチを作って父の弁当と昼食用にし、朝食はキンピラにひじきの煮付け、具だくさん味噌汁に卵焼きと焼き鮭、大根の葉を塩で揉み込んだ簡単な漬物に、海苔を軽く焙って皿に乗せた。
父を送り出して掃除に集中する。モップを持って何度も床を往復して雑巾がけをする。窓までぴかぴかに拭いた後、風呂場に籠りずぶ濡れになりながら磨いた。
洗濯はシーツだけでなくカーテンも洗って干した。
溜めていた繕い物も全て縫い終わらせた。
炎天下の中、小さな庭の草むしりを、だらだらと汗を流しながらせっせとやる。
「ねえちゃん、今日どうしたの? お客さんでも来るの?」
あまりにも必死に動き回っていたため、弟に不安げな声で尋ねられてしまった。
* * * * *
三日後の夜。
わたしは弟を道場に送った後公園に向かった。
何だか、今までで一番緊張している気がする。
ベンチに座り、膝上にトートバックを抱えて深呼吸する。
大丈夫、今夜も眼鏡はしていないから、はっきりは見えない。
普通に話せばいいのだ。いつも通りお茶をして、持ってきたものを出して、それから――。
「すまん。待ったか?」
少し緊張気味な、低い声が降ってきた。
ずっと聞きたかった声をようやく聞けて、嬉しい筈なのに酷く胸が苦しかった。
隣に座られても俯いたままで、何もできない。
口を開いても声が震えそうで、落ち着けと自分に言い聞かせる。
そんなわたしの様子を見て、先生は誤解したのだろうか、
「――この前はすまなかった」
と謝ってくれた。
そんなことない、と言おうとして顔を上げた私に、
「悪いが、あの時の電車での事は忘れてくれ」
と先生は言った。
そこで話しは終わったのか、しん、とした公園で、後は無言だけが続いた。
「あの……それ、だけ、ですか?」
「……ああ」
「……ひどく、ないですか……それ」
声が震える。でももう、そんな事はどうだっていい。
「わたし……あれから、すごくいろいろ、考えたんですよ……?」
先生はわたしの顔を見ず、俯いたまま、
「すまん」
とだけ、言った。
途端に、わたしの中の何かが、ぷちん、と切れた。
おい!
わたしの今まで悶々としていた三日間は、一体何だったんだ!
「…………分かりました」
声を押し殺したわたしの言葉に、ホッとしたような身じろぎが返ってくる。
「じゃあ先生……私にキスしてください。
そしたらもう、すっきりと忘れますから」
腹を立てながら言ったせいか、メチャクチャな要求が全然恥ずかしくなかった。
先生が飛び上がりそうな勢いでわたしの方を向く。
「おいっ!? 七村どうした、急に何言いだし――」
「先生のせいです……」
わなわなと震える声でわたしは吐き出す。
「先生が、プレゼントくれたり手を繋いだりなんてするから、あれからずっと先生の事ばかり考えてたんです。
今日だって緊張して、でもすっごく楽しみにしてて。お茶の時に出して一緒に食べようって鮭とキノコのキッシュも焼いてきたのに。
……なんか、わたし、馬鹿みたい…… 一人でどきどきして、勝手に先生の事、好きになっちゃったりして」
あーあ、言ってしまった。
けれどもう、止まらない。吐き出すまでは終われない。
「お、大人ってそういうとこあるよね、思わせぶりなことして、いざとなったら逃げてばっかりでさ。この前だって、先生、わたしにキスしようとしてたくせに逃げたの、知ってるもん。ホントはキスして欲しかったのに。だ、だから今日だってほんとは――」
半泣きになっていたわたしの手が、ぐい、と引かれて抱き締められる。
「――キスはしない」
何かを押し殺したようなその声は、いつもの先生と違っていた。
「キスすると……七村は忘れるんだろ」
「……はい」
「なら、しない」
「意味、分かんないんですけど……」
「――違うヤツが好きじゃなかったのか?」
「え?」
「いや、何でもない」
抱き締めたまま、先生のがわたしの髪に手を入れてくる。
優しく撫で梳くその心地良さに、うっとりと目を閉じる。
そう。ツキツキみたいに、わたしもこうして欲しかった。ずっと、羨ましかったんだ。
「――七村」
「はい」
「11も年、離れてんだぞ。俺達」
「この前誕生日きたから、16です」
「それでも10離れてるだろ」
「駄目ですか?」
「――俺は初めて会った時から、お前にベタ惚れだよ」
わたしは顔を上げると、首を伸ばして先生にぎこちなくキスをした。驚いたように身じろぎしたその唇は、ほんの少し固かった。
「……キスしたけど、忘れませんでした」
顔を離して、頬を寄せながらわたしはくすくすと笑った。
「だから、もう大丈夫です、せん――」
その後に何度も教えてもらったのは、大人のキスのやり方だった。