3杯目
お題:わたしの好きな芸術 制限時間:1時間
結局先生を引っ叩いてから夏休みになるまでの3回を、わたしは夜の公園に行かず近くのコーヒーショップで時間を潰した。
たかがコーヒー一杯に500円を使うのは痛かったが、練習を見るなと言う弟の気持ちを尊重したかったのだ。
学校でもわたしは極力先生の顔を見ないようにして過ごした。
夏休みさえ始まれば。
そう言い聞かせ、そつなく日々を過ごす。
祭りの日がきっかけで、ルビは武田と付き合い始めたらしい。
「正直くんがねぇ……」と嬉々として語るルビは、同性のわたしから見てもますます可愛くなった。『恋してます』オーラが全開なのだ。
登下校を一緒にしている姿なんて、見ているこちらが照れ臭く感じるほど互いにもじもじしながら歩いている。
そんなルビの、恋に素直なところが少しだけ羨ましい。
終業式が終わり、HRを終えた吉備北先生が出ていく姿を目の端で捉える。
その背を追いかけ、ルビみたいに「せんせぇ」なんて甘えて裾を引く自分の姿。
……うげ。想像するんじゃなかった。
武田が席に迎えにきたらしく、ルビがあたふたと帰り支度をして立ち上がる。
「七村ぁ、夏休みも遊んでねぇ」
連れ立って歩きだしならが、ひらひらとわたしに向かって手が振られた。
「あら七村さん来ちゃったか。ちょっと用事入ったから施錠しようかと思ってたんだけど」
図書室に入ると、司書の柚木先生に困った顔をされてしまった。
「30分くらいなんだけどねえ、委員会の子が来ないから……」
「良かったらそれまでここにいましょうか。貸出や返却処理くらいなら代わりにできますし」
図書室常連なため、ごく稀に忙しそうな時は委員の仕事を隣で手伝うこともある。
「そうねえ、開室してた方が他の子来た時に助かるものねえ。じゃ、お願いしよっかな」
柚木先生に頼まれ、わたしはひとり図書室に残った。
しん、とした本だらけの室内。
誰かが来てもすぐ分かるように入口近くに待機しようと、わたしは返却コーナーをチェックしていた。
図書室では返却された本は、まずブックトラック(運搬用ワゴン)にどんどん溜まっていく。それがいっぱいになってから先生や委員で本の返却がされるのだ。
羅列された本は、ライトノベルや少女小説、科学雑誌に写真集と様々だった。貸出された人が興味を持った本が分かったりして、このコーナーをチェックするのは結構楽しかったりする。
背文字を順に追っていると、歴史書が数冊並んでいる事に気付いた。日本史の地域毎の祭りや文化についての本。一般生徒が読むには少しマニアックなジャンルだ。
わたしは本を手に取り、ぱらぱらと中身をめくってみた。白黒の写真に難しい言葉が並んでいた。
ガラッと後ろの扉が開き、
「ユズちゃーん?」
と女性の声がした。
慌てて振り返ると、B組担任の荻野先生が顔だけ扉から覗かせていた。
「柚木先生はさっき出ていかれましたけど」
「あ、そうなんだ」
出ていこうとした荻野先生の目が、わたしの手元で止まった。それから、わたしの顔へと視線が移る。
「あらー、七村さんって図書委員だっけ」
そう言いながら荻野先生の身体がするりと室内に入ってくる。
「いえ。柚木先生が退室される間、代わりに留守番しているだけです」
名前を憶えられていたことに少し驚く。8クラスもあるのに一学期でよく記憶できるものだ。
「そっか。……ねえあなた、日本史が好きなの?」
「いえ、特には」
「ふぅん。その本、ちょっと難しいから凄いなって感心しちゃった」
「あ、これは返却ワゴンに入っていたのを……」
「さっき吉備北が返却した本なのよ」
いきなりその名前が出て、思わず言葉が止まってしまった。
そんなわたしに荻野先生がにっこりしながら近付いてくる。
「ね、七村さんってそのおさげ、ずっと前からなのかしらあ?
よく似合ってて可愛いわよね。
いろいろお話してみたかったし、ユズちゃんが戻ってくるまで、ちょっとここで待っていよっかな」
ガタッ、と椅子の背を引きながら、荻野先生がわたしの顔を見たまま笑いかけてくる。
美人だ。
けれどそれは、『女』を意識した笑い方だった。
「――ね。もしかしてあなた、時々公園に遊びに行ったりしていない?」
「失礼します」
わたしは一礼すると、図書室を飛び出した。
先生のバカ
先生のバカ
先生のバカ
先生のバカ!
わたしとの事、他の人にもベラベラ喋っていたなんて!
鮮やかな口紅、艶やかなグロス。荻野先生の笑い方は、凄く『大人の女』って感じだった。
(たかが図書室で話しかけられただけじゃない)
そう言い聞かせつつ、わたしは酷く打ちのめされていた。
勘はいい方だ。なんとなく分かった。
大人の女を見せてきたのは、つまりそういう事なのだろう。
荻野先生はたぶん――、吉備北先生を好きなのだ。
(制限時間以内にお題まで到達できませんでした)