5杯目
お題:僕の好きな秘部 制限時間:1時間
職員室でじっとしているのも落ち着かず、俺はサーバーからコーヒーを注ぎ入れて外に出た。
運動部の生徒達が練習をしているのを眺めながら一息つく。カーン、というバットに当たるボール音に、青春の音だなとぼんやり思う。あとで顧問をしている部の方も様子を見に行っておこう。
カララ、と後ろのアルミ製の引き戸が開いた。
「吉備北センセ、お客さんよ」
生徒前用の声色を作る荻野の横に、七村が立っていた。
「あー、相談室に行くか」
荻野の前でボロを出すのが恐ろしかったので、俺は七村を連れて相談室に向かった。
木製の引き扉をスライドさせ、入るように促す。
相談室は6畳ほどの和室で残業する日や休日出勤時には、ここで軽く1時間程仮眠を取る事もある。つまりは、とても落ち着く。
パタン、と扉を閉じて上靴を脱ぎ中に上がる。長机に向かい合って座ると、締め切った空気の中暫しの沈黙が続いた。
「あー……その、話しておく事があるんだが」
切り出し方がいまいちだったが、一度話し出せば曲がりなりにも教職者である。
七村に対し、
・生徒が一人で夜の公園に行くべきではない事
・これまでは自分も勘違いしていたため口を出さなかったが、担任となったからには見逃すわけにはいかない事
・理由があるならばせめて保護者同伴で付き添ってもらうように、といった事
を、できるだけ冷静に話していった。
俺が話しをしている間、七村は口を挟むこともなく黙っていた。
「――と、いうわけだ。以上」
話し終えホッとしていると、「先生」と七村が初めて口を開いた。
「保護者というのはどんな立場の人でもいいんですか」
「いや。生徒本人と血縁関係にあるか、もしくはそれに準する者、しっかりとした保護責任の立場が証明できる相手に限る。赤の他人では駄目だぞ」
「じゃあ、吉備北先生が一緒なら大丈夫なんですね」
よもやの質問に言葉が詰まる。
あれ、俺、無視されているんじゃなかったのか?
嫌われたんじゃないの?
「いや……それは、その」
言葉を濁していると、
「わたし、今夜も公園に行きます」
七村がきっぱりと言った。
「行きますから、先生が保護者として付いていてください」
「……」
「もし来なければ、今までの関係をバラします」
「なっ!?」
「えーと、たとえば友達とか、さっきのB組の担任の先生にもバラしちゃいますから」
「ちょ、ちょっと待て!」
荻野だけは駄目だ!
俺の気持ちを知っているアイツだけは!!
絶ッッ対に、駄目だ!!!
「わたし、本気ですから。では」
そう言って、七村は立ち上がると入口でお辞儀をして相談室から出ていった。
俺は呆然としてその場に取り残されていた。
****
(何でこうなっちまったんだ……)
スポーツバイクを駐輪場に止め、苛立ちながらランニング・ロードを早足で進む。
そもそも正月休みに食べ過ぎ・飲み過ぎてしまったのがいけないのだ。余計な贅肉がつかなければこんなところまで来ず、筋トレだけで済んでいたというのに。
それから、あの時ベンチに彼女が座っていなけりゃ、そうして俺がそれに気付いていなけりゃ……
って、やめよう。不毛な考えだ。
ベンチにはまだ誰も座っていなかった。
そろそろと辺りを見回して、とりあえずいつもと同じ左端に座る。
時計の針はまだ少し早い時刻を指していた。
どうすっかなー……と考えていると、
「――こんばんは」
落ち着いた声が上から降ってきて、俺は首を真上に上げ――、息を呑んだ。
不機嫌そうな顔で現れた彼女は、いつもの眼鏡もおさげもしていなかった。
サラサラのロングヘアは背中まで流れ、すとん、と隣に座った瞬間、甘く爽やかなシャンプーの香りが俺の鼻をくすぐった。
「…………ないんですか」
「えっ」
「お茶。今日はないんですか」
「あ、ああ! す、すまん」
どういう態度を取るべきかで頭が一杯だったため、お茶のことなどすっかり失念していた。
「そこの自販機で買ってくるから」
立ち上がり、急いでベンチを離れる。
自動販売機の前に立ち千円札を滑らせる。
ピ、と光ったボタンのうち、カフェオレを押そうとした俺の横で、
「ミルク臭いのって苦手なんですよね」
綺麗な指先が微糖コーヒーのボタンを押す。
ガコン、と缶が落ちるのと同時にチャリン、チャリン、と釣り銭が重なる音がした。釣り銭口から三枚の硬貨を拾い、それを投下口に入れると、
「――『キビキタ』さんは?」
彼女が前を向いたまま尋ねてきた。
「いや……特に」
やっとのことでそれだけを答える。七村は自分と同じ銘柄のコーヒーのボタンを押すと、落ちてきたそれを俺に差し出した。
「はい」
自動販売機の光が彼女の顔を明るく照らしている。
受け取ろうとした指先が触れ合ってしまい、俺は年甲斐も無く動揺してしまった。
おい、何だよこの反則技は。
あれか、一昔前の少女漫画にありがちな『眼鏡を外したら~』っていうあれか。
赤いフレームの眼鏡を外した七村は、とてつもなく俺好みだった。
「わたし、アンフェアなのって嫌なんです」
ベンチに戻り、コーヒーを口に運びながら七村が呟く。
「だから、この場所でだけは今まで通りの関係で過ごすのって、駄目ですか? 『キビキタ』さん」
「……」
「受け入れられないのなら、それでもいいんです。
その代わり、もうここには二度と来ないでください」
七村の顔を見る。
冷たく挑戦的な彼女の瞳を見た瞬間、不覚にも俺はぞくりとしてしまった。
「…………分かった」
もう、どうにでもなれ。