1杯目
お題:部屋とYシャツとユートピア 制限時間:1時間
「あー、ついにこの日がきたわね」
職員室にて、コサージュ付きのひらひらしたスーツに身を包んだ荻野が、生徒名簿の読み確認の最終チェックをしながら呟いた。首にはシンプルなブランドもののネックレスを着け、髪は美容院でセットしてきたらしくつやつやとまとまっていて、いつもより数倍女らしく見える。
荻野はちゃんとした化粧と恰好をしていれば結構な美人だ。何も知らない新入生男子は見惚れてしまうのに違いない。
「しっかし最近の名前って読み方わっかんねーよなあ……」
その隣でスーツを脱ぎYシャツ姿のままで俺も名簿を眺めていたのだが、思わず軽いため息が漏れる。
なんだこの樹里庵だの夢路照って。
ここは日本だ、おとぎの国じゃねえぞ。
勿論、そんな愚痴は絶対に生徒達の前では言えないが。
「俺はこういう、普通に読める名前の方がいい」
「『留美』かあ。ま、平平凡凡だけど可愛いわよね」
俺の名簿を横から覗きながら荻野が答えた。
「俺んとこ二人いるぜ、留美ちゃん」
「あらあ、ほんと。ま、名字被ってるわけじゃないしねえ」
クラス分けをする際、まずベースとなるのが学力順だ。全クラスの平均学力がなるべく均等になるように入試結果のトップから順に配分していく。
それから、同じ学校出身者だらけにならないようにバラしたり、逆に一人だけにならないよう合わせたり。
名字が被ると呼ぶ際に面倒なことになるため、この辺りも気を付けて確認している。
他にもいろんな選考要素が入るのだが、このクラス分けというやつは学年担任の先生達とああだこうだと顔を寄せ合い、慎重に行っているのだ。
『江ノ原留美』と『七村留美』。
俺の1-A担当のクラスの留美は、この二人だ。
七村。
ナナムラさんと同じ名字だ。
眺めるうちに口元が緩みそうになったのを、慌ててキリリと引き締める。
『一緒に聴きます?』
あの夜、そう言ってヘッドホンを彼女の耳にあてながら、同時に自分の身体も近付けたのは賭けだった。
大人しそうな彼女が怯えて身を引いてしまわないか内心不安だったのだが、彼女は黙って一緒に音楽を聴いてくれた。
(おっしゃあ!)
内心歓喜にむせび泣きそうになりながら、これは脈有りだと確信したのだ。
彼女に会えなかったひと月半で、俺の寂しさは限界にきていた。
再会し、喜ぶのと同時に、またこんな想いをするくらいならいっそ攻めに出ようと決意し、機会を伺っていた。
もしかしたらあと一押しか二押しで、ユートピアに到達できるかもしれない。
* * *
入学式に出席するため、大勢の新入生と保護者が校門をくぐっている。
そろそろ登校時間も終わりに近付いてきたため、生徒指導担当でもある俺は校舎の外を歩いていた。挨拶と共にお辞儀をしてくる新一年生達は、皆期待と不安で緊張した面持ちだ。
この子達をしっかりと一年間指導してやらねば。
気を引き締めつつそう誓い、校舎の角を曲がる。
瞬間、心臓が止まった。
植木の枝におさげを絡ませた少女がいる。
うつむいて髪を解こうとしているその姿は、あまりにも『ナナムラ』さんにそっくりだった。
(いや……あれは気のせいだ)
彼女の事を考えていたせいで、似た姿を見て錯覚しただけだ。
第一ほら、彼女はうちの学校の制服を着ているじゃないか。
「――どうした、絡まっているのか」
冷静に、教育者らしく声をかける努力をする。困っている生徒がいれば教師として手助けをするのは当然のことだ。
彼女の顔は見ず、とにかく髪を解いてやることだけに集中する。
俺は教育者、教育者だ。
私情を表に出してはいけない。
細く柔らかな髪はすぐに解けた。おさげだった髪がぱらりと広がり、ほのかに甘い香りに不覚にもドキリとする。
「よーし、これでもう――」
終わったことにほっとして生徒を見た瞬間、今度こそ、俺は本当に動けなくなってしまった。
相手も赤い眼鏡の向こうで、切れ長の瞳をこれ以上ないくらに広げて俺を見る。
おい、おかしいだろ。
こんな所に、彼女がいる筈……。
彼女の目線が俺の胸に留まる。そうして、ゆっくりと俺の顔を見て、
「…………『キビキタ』さん?」
と『ナナムラ』さんの声で尋ねた。
――明るい陽光の下、彼女は思っていた以上に『少女』だった。
ぶわああああああっ
一斉に顔に血液が上る。
ばくばくと心臓が跳ねまわり、嫌な汗がどっと噴き出す。
おいっ!
おい、嘘だろ!?
誰かが、俺を担ごうとしてるんじゃないのか!?
頼むから、お願いだから!
――嘘だと言ってくれ!!
心の中で絶叫して転げまわりながら、実際は、俺はその場から動けずにいた。
ただダラダラと冷汗ばかりかく俺を、彼女は落ち着いた態度で見つめていた。
「……先生、だったんですね」
何も返せない。
ごくりと鳴った喉の音がやたら大きく辺りに響いた。
「……失礼します。
助けていただきありがとうございました」
一礼すると、彼女はその場をタッ、と走り去ってしまった。
呆然としたまま、首だけをゆっくり回して振り返る。
小さくなっていくあの後ろ姿は、確かにあの『ナナムラさん』のものに違いない。
「俺は馬鹿か……」
今まで中学生に恋していたのだ。
――その事実に一気に顔から血の気が引く。
高校教師が中学生に片思いって。
おい、冗談じゃねえぞ。
「……クッソ。おい、どうすんだ俺!」
かすれた声を漏らしたのはそれから数分後、校舎の壁に頭をゴンゴンと打ち付けながらだった。
制服姿の彼女を見て、高1なのだと認識した。
なのに俺は、やっぱり彼女にむちゃくちゃときめいていた。