「いつもこうやって誑し込んでいらっしゃるの?」と言った。一目惚れした瞬間に。
これはピンチと言っていいだろうか。
パーティーの真っ最中のことだ。突きつけられた婚約者の言葉を冷静に聞く。
「リーディエ! お前みたいな可愛げのない女、願い下げだ! 婚約なんか破棄だ、破棄!」
ほっほう。これが噂の婚約破棄。
最近恋愛小説で流行っているらしいけれど、まさか自分の身に降りかかるとは思ってみなかった。
けれども思っていたより何も思わない。どうしましょう。
「そうですか? どうしたら可愛らしくなりますかね?」
「っ、自分で考えろ! そういうところが可愛くないんだと……!」
ふん、と鼻息を荒くする婚約者。あ、元か。
たった今まで婚約者だったクリスはおそらくカルシウムが足りていないのだと思う。魚嫌いだから。
教えてあげたほうがいいかしら、とも思ったけれど、もう他人になったのだ。気にしてあげる必要も、情もない。
「えええ……困りましたね。可愛らしくないと結婚してもらえないのでしたら、今後のためにも教えていただきたかったのですが」
「俺のためとかじゃないのか、そこはァ!」
「まあ、はい。婚約を断られた手前、クリス様の好みに合わせる必要もありませんから? 可愛くなるアドバイスもいただけなさそうですので失礼させていただきますね。それでは、ごきげんよう」
「ま、待て……!」
くるりと向けた背に、まだ何かクリスが言っていたが、耳には届かなかった。正確には心に届かなかった。他人となった人の言葉なんて何の意味もないのだから。
コツコツといつもと変わらない足取りで歩くのは、年に一度の建国記念パーティーだ。
目の前で繰り広げられた大事件に、おろおろとする参加者の間を、何事もなかったかのようにするりと通り過ぎる。
そこそこ有名なバレリー伯爵家の令嬢と、これまたそこそこ有名なシーラン伯爵家令息の、破談事件。
目立っていたことはわかっていたつもりだったけれど。
集中する視線に、はて、と首を傾げた。
こんなに気にする必要はないのでは? 所詮、他人事でしょう?
料理が並ぶテーブルへと近づき、取り皿に盛る。毎回、パーティーのお目当てはこの料理だけだ。陛下のお言葉も、音楽も、ダンスタイムも全部おまけ。何ならダンスは嫌々付き合っていたほどだ。大して上手くもない元婚約者のクリス相手に。
こそこそと、面の皮が厚いやら、心臓が鋼でできているやらと聞こえてくるものの、料理の美味しさは変わらない。味わいつつもぺろりと平らげた。いつ来てもこのドレッシングが最高なのよ。
——実際、大したことではないのだ。
家格が同等だと、幼い頃に勝手に整えられた婚約で、私もクリスも互いに好意はない。
クリスに至っては、他に、恋人もいたようだ。今も続いているのかは興味がなくて調べていない。その程度の関係性。
それが破談になったところで、困るのは……まあ、お父様かしらね。
けれど、やはり大事になることでもない。
野心も野望もないお父様は、適度な相手と私が結ばれればよく、バレリー伯爵家の後継者としては兄がいるため、結婚相手に厳しい制限も要望もないのだ。
ただ、めぼしい令息はすでに婚約済みなので、これから新しい婚約を結ぶとなると、少々難しい。
が、相手を選ばなければ、どうにかなるものだ。
歳が離れている、だとか、少々趣味が悪いだとか、見てくれがアレだとか、まあ、金遣いの悪さと暴力沙汰、犯罪がなければ結婚は成り立つのではないだろうか。個人的には、すでに子供がいるか、家を継ぐ必要のない三男あたりだと気が楽ではある。後継ぎ問題から逃げることができるからだ。
まあ、でも、どうにかなるでしょう。私の見てくれ自体は、そう悪くもないはずだから。
つい今しがたクリスには可愛くないのだと罵られたが、あれは見た目の話ではない。性格だ。薔薇の花のように、見ているだけなら美しいが、近づくと棘で怪我をするのだそうだ。不思議ねえ。
腫れ物に触らないようにできた空間の中で、物思いに耽りながらイチゴを頬張っていると、背中から声が掛けられる。
「見たぞ。慰めてあげようか?」
余裕たっぷりな男の声は、楽しくて堪らないといった様子で、喉を鳴らした。
猫っ毛の亜麻色の髪を揺らしながら、覗き込まれた瞳はシャンデリアのような黄金色。美麗な外見で目立つから、この男を知らないわけはない。
「まあ。フレデリアン様。せっかくですが、結構です」
「おお、冷たいな。君と俺との仲なのに」
「冷たいのではなく、常識的なのです。フレデリアン様とはただの顔見知りですから」
知らないわけではないが、よく知っているわけでもない。
パーティーや馴染みの店で時々顔を合わせる。会えば一方的に話しかけてくるが、何か重要な話をするわけでもなく、ただ揶揄うだけに私の前に現れるのだ。公爵子息で暇でもないくせに、おかしな執着を向けられている。
「うーん、どうしたらガードが緩くなるんだ?」
「フレデリアン様が私に話しかけなくなったら、でしょうか」
「困ったな、それでは意味がない」
全く困った様子もない笑みに、肩をすくめた。女性であれば惹かれずにはいられないというその微笑みに、私は冷え切った視線を送る。
皆に嫌がられる冷酷に見える表情と、隠さないきつい言葉。どうやらこれが、彼の執着を呼んだようなのだ。
「リーディエ嬢と仲良くなりたいと思っているんだ。それなのに、いくら話しかけてもちっとも棘が取れない」
「取れてしまったら、私ではないでしょう」
「そうか? 薔薇は花びらだけであっても、美しいと思うけれど」
さも当然とばかりに褒めるこの男に、幾人の女性が骨抜きにされたことだろう。
善人のような顔を見せる、フレデリアンの本音を私は知っている。バルコニーの隅にいた私に気づかなかったのだろう。パーティー会場の喧騒から離れ、一人現れたフレデリアンから漏れ出た「令嬢たちの相手は面倒だな」という呟きを、この耳でしっかりと聞いたのだから。誰に聞かせるものでもなく、誰も聞いたことのない本音だったはずだ。
隠そうともせず、彼の目の前で、大きなため息を吐いてやった。
「そもそも婚約者のいる相手に気軽に話しかけるものでもないと思いますし、顔見知り程度でこうも頻繁に話しかけられても困りますし、公爵家の後継者様に声を掛けていただくほどの身分でもございませんし?」
「何を言う。かの有名なバレリー伯爵のお嬢様が」
「有名どころの伯爵家でありながら、あまりにも無欲、凡庸、というお父様のお話ですか?」
聞こえてくる陰口を口にすれば、フレデリアンは、まさか、とまた笑う。
「バレリー伯爵が凡庸だとは、思えないぞ。あの穏やかな仮面の下で、力関係をきちんと把握しバランスを取ってる。……まあ、無欲というのは、当てはまるのかもしれないが」
「…………過分な褒め言葉ですわ」
驚いた。お父様の本質を見抜いている人間は珍しく、ますます警戒心が強まった。
世間話のようなやりとりで足元をすくわれてはたまらない。
「フレデリアン様。あちらにダンスをお待ちのご令嬢方がいらっしゃいますよ。それでは、私はこれで」
お腹も膨れたことだ。流行りのドレスに身を包んだ令嬢たちを指し示して、とっとと退散するに限る。お父様に婚約破棄のこともお伝えしなければならないし。
「……リーディエ嬢は、踊ってはくれない?」
しょんぼりと下がった眉に覚えた戸惑いを必死に打ち消して、品よく鼻を鳴らした。
「当たり前でしょう。どうして私が。それに、婚約破棄されたばかりの女と踊っては、評判が落ちますよ。では」
自然に見えるよう、優雅に、平然として、頭を垂れた。そうして振り返ることなく会場を後にする。
なんとしても、取り繕った仮面が外れてしまう前に、退出しなければならない。
火照る頬を彼に見られるわけにはいかないのだから。
◆
屋敷に戻るや、クリスとの婚約破棄を伝えるべく、お父様の書斎へと向かった。
状況を知ったお父様は、予想通り特に焦った様子もなく「そうか」と頷いただけだった。
「私が言うのもおかしな話ですが、よろしいのですか?」
私の問いに、お父様は静かに微笑んだ。口端だけ上げる姿は、書斎ではよく目にする。社交場ではこんな顔、一切見せないが。
長めの前髪を掻き上げ、品よく腰掛けたお父様は、美丈夫とは言わないものの、紳士として好まれた体躯をしている。だからか、この暗い色で纏められた重厚な部屋では、噂通りの凡庸からはかけ離れて見えるのだ。
「ん? ああ。別に構わんよ。先代のシーラン伯爵に請われていただけだから、向こうがそれを拒否するのだから仕方ないね。リーディエは美しいから、他にも貰い手はいるだろうよ」
「……まさか、お父様の計画通り、のようですが」
「はっは! わかるかい。あんな男にどうして私の娘をやれるものか。見た目にしか拘らない、親の苦労も知らず、与えられるものを傲慢に受け取るだけのあのボンクラに」
ひえ、辛辣。
お父様がクリスのことを好んでいないとは知っていたが、ここまでとは。
ひとまずこの件で怒られることはないと判断して、次の疑問を投げかけた。
「私の婚約は、どうされるおつもりでしょう?」
「……ああ。リーディエに、気になる男はいるのか? 誰でもいい。婚約者がいない男であれば、王子だろうが、公爵家だろうが、伯爵家だろうが。子爵家でも構わないぞ、リーディエが気に入る男なら。……もう一度言うが、王子でも、公爵家でも、だ」
格上でも構わないと真っ直ぐに問われて、真っ先に思い浮かんだのは、フレデリアンの顔。次期公爵であるにも関わらず、彼もまた、婚約はしていなかった。
けれど、ふるりと首を振る。
「特に、ございませんわ。お父様の指示に従います。ああ、ですが、可能でしたら、後継ぎの心配のない家ですと嬉しいのですが」
ふわりと笑った私に、お父様は片眉を上げたのち、肩をすくめた。
「全く、欲がないねえ」
「お父様の娘ですからね」
「ま、いいだろう。適度な家を探しておこう。もしかしたらこれまでより不便な思いをさせることになるかもしれないが。問題は起きない家を選ぶつもりだ」
「承知しました。構いませんわ。クリス様より素敵な方であれば」
「ハッ、本当に欲がない。あれより良い男など簡単に見つかるだろうよ」
お父様の書斎を後にして自室に戻ると、ようやく肩の力が抜けた。
その足で机に向かう。机の上には羽ペンとインク、本が数冊置いてある。それらには手をつけず、一番上の引き出しを開けた。出てきたのは思い出深い、チェーンの切れたネックレス。トップには、私の瞳によく似たピンクサファイアが輝いていて、見るたびに、淡白な心を揺らしてくれる。
亡き母の形見であり、かつて、フレデリアンが拾ってくれた、思い出の品でもある。落としたネックレスを包んでくれたハンカチも一緒に仕舞ってあった。
こんなに大事にしておいて、彼を『顔見知り』と言い切るのも辛いものがあるが、しかし。
「でも、彼が興味を持っているのは、私の棘のようだから」
婚約者がいた手前、婚約者以外に興味を持つなど、ありえなかった。少なくとも、私の感覚では。
もちろん恋愛と好意は別物だと理解しているし、婚約者とファンというのもまた、別であるのもわかっている。それでもだ。
私の中の私がそれを許さなかった。
だからネックレスを拾い上げてくれたフレデリアンに心奪われたけれども、一切の関心を見せず、全ての想いに頑丈な鍵を掛けて。
冷たく、言い放ったのだ。「いつもこうやって女性を誑し込んでいらっしゃるの?」と。
今考えてもありえない。チェーンが切れたのは偶然で、その場にフレデリアンがいたこともたまたまだったから、ただ感謝の言葉を述べればよかっただけだ。フレデリアンもまた、目を見開いてあからさまに動揺していた。
彼のあり得ない美貌を目の前にして、驚き、焦ったのだと気づいたのは、彼に背を向けた後だった。
目に飛び込んできた顔も、低めの声も、落とし物を拾ってくれた優しさも、その全部が、私の心を奪っていった。
礼儀知らずな態度をした後悔と、彼に惹かれた心を、自室で誰にも気づかれることなく封印したものの、何がどうなったのか、その後、外出先でたびたびフレデリアンに出くわすようになった。
彼の黄金色に覗き込まれるたび、私の心臓はギュッと縮こまる。だらけた姿を見せられないと、眼差しをきつく光らせた。
「ただの令嬢に成り下がるつもりもないから、棘を抜くわけにはいかないわ。婚約者がいない今だからこそ、向けられる視線を堪能できるのよ」
呟いて、静かに引き出しを締める。失くしては困るから、鍵は掛けない。
次の婚約が決まるまでだから、と自分自身に誓いを立てて、想いの蓋を少し緩めた。
◆
それからすぐのことだ。
またフレデリアンと対面したのは、私が気に入っている本屋だった。
彼が入ってきた途端、静かな店内が色めき立つ。
「おや。奇遇だねえ、こんなところで出会うなんて」
「…………公爵家には、大きな図書室があると伺っておりますが?」
「俺だって本屋に足を運ぶこともあるんだよ、心外だな」
「……失礼いたしました。出会いの場は必要ですものね」
黄金色の瞳が、蜂蜜のようにとろりと甘く私を映す。
「そう。この場合、君に出会うための場だった、かな?」
「気のせいでしょう。私が会いたかったのは、こちらの店主ですから」
一寸の隙も見せてはならない。彼の目を正面から見てしまったら最後、私の仮面はあっさり剥がれ落ちる自信がある。
目を合わせることなく、本屋の店主へと顔を向けて凌ぐ。店主の顔が驚いたように目を見開いていたが、今はまだフレデリアンの方を見る勇気がない。
「……ご主人、以前お願いしていた本は手に入りましたか?」
昔、母に読んでもらった覚えのある、子供向けの物語だ。急いではいないから、探してくれ、と頼み込んだ代物で、だからもう入手できたとも思っていないけれど。口実だ、店主の方へ顔を向けるだけの。
可哀想に、店主は眉を大きく下げた。
「申し訳ございません。まだ見つかっておりませんで……」
「そうですか。いえ、急いではおりませんので、また寄らせていただきますね」
落ち着いた心臓を取り戻して、ほっと息を吐いた。
その努力をかき乱すように、耳元に、低くて甘い声がする。
「——なんという本だ」
「え?」
危険を察知して振り向かない。が、硬くなった身体を解くような、柔らかな声は、心地良く頭に響く。
「リーディエ嬢が言っただろうに。公爵家には国内有数の蔵書量を誇る図書室がある、と。あるかもしれないぞ、よければ案内しよう。どうだ?」
断らなければならない。隙を見せてはならない。今すぐに背を向けなければ。
そんな理性を、少し蓋が開いてしまった心が邪魔をした。
「——もちろん、エスコートはしてくださるのですよね?」
つい差し出した手を、彼は躊躇することなく握り、「もちろん、レディ」と言う。
楽しげに微笑むフレデリアンはあまりに眩しく、直視できなかった。
店の前で待たせていた馬車に乗り込むと、向かい側にはフレデリアンの長い足。それから磨かれた茶の革靴が、私の靴の横にある。つまり近い。
顔を合わせないよう、窓の外へと視線を向ける。
青空の下、道ゆく人々の多くは笑顔で歩いていて、より後悔は深い。
どうして行くことになってしまったのだろう。失態だ。
「こんな風にお誘いいただくなんて……慣れていらっしゃいますのねえ」
静かな空間に耐えきれず、口を割って出てきたのは、やはり可愛げ一つない言葉。
「ああ、言っておくけれど、店先から急に屋敷へ招待したのはリーディエ嬢だけだよ?」
「信じられると思いますか? 数々のお噂がございますのに」
「噂なんて、真実がどれほど含まれていると言うんだ」
焦ったように言葉をかけてくれるフレデリアンは、女性の扱いに慣れている。
そんな様子にさえ、ときめいてしまうことを、わかってやっているに違いないのだ。
「まあ、そういうことにしましょうか。せっかく図書室へご招待していただけると言うのですから」
フレデリアンは気を悪くする仕草も見せず、眩しそうに目を細めている。
その顔はこちらを向いていて、全て見透かされていそうでドキドキした。早く着いてと願った道中は、ずっと気が休まらなかった。
◆
ヴィーダガルタ公爵家の図書室は、噂どおりの広さだった。
壁一面に背表紙が並び、等間隔に置かれた本棚も隙間なく本で埋められている。
「わ……!」
「どうだ、満足できそうか?」
緩んだ顔を慌てて引き締めて、咳払いした。
「さすがは公爵家ですね。素晴らしいです。やはり本屋へ行く必要はないのではありませんか」
「……全く、リーディエ嬢に会いたかったのだと言っただろう?」
「ふ、次期公爵様にそう言っていただけるなんて、光栄ですわ」
騙されちゃいけないのよ。令嬢との会話が嫌いな彼にとって、これは、社交辞令で。
顔の横に流れた柘榴色の長い髪をくるりと指で弄んだ。
「それで、私の探している本ですが……」
「ああ、これかな」
すっと差し出されたのは深緑色の装丁が施された本だった。もう一度見たかった、懐かしい色だ。
手に載せられた重みが、過去の温かさを思い出させてくれる。
探していた本を、室内を歩き回ることなく手渡されたことに驚いた。
「え、どうして」
「本屋の店主に聞いておいただけだ。せっかく来てもらって、置いてなければ格好つかないだろう?」
堂々とした態度に、うっかり誤魔化されるところだったが、私は引っ掛からない。
「……いつ聞いたんです?」
「……………………君の、聞いていないところで」
フレデリアンの目が泳いだことで確信した。今日よりももっと前に、どんな本を欲しがっていたか、確認済みだったのだ。
どうしてこんなことをしたのかわからないけれど、悪戯がバレたような照れた顔が珍しくて、息を呑む。これはまずい。不意打ちはやめてほしい。
「…………やっと、見られた」
「え、何ですか!?」
ぼそりと呟いたフレデリアンをも遮って、落ちかけた仮面を付け直す。最大限、目に力を入れた。彼に向き直った顔はいつもの冷静な顔を貫けているはずだ。
目を見開いたフレデリアンが、口を片手で押さえながら首を横に振る。
「いいや、何も。……リーディエ嬢の欲しい本が見つかってよかったな」
そう、言及を封じるように満足げに笑うから、お礼を言うことさえすっかりと忘れてしまった。
本を受け取り、しばらく図書室を眺めて歩いたあとは、ティータイムに誘われた。薔薇園の横に建てられた東屋で、テーブルいっぱいのケーキが綺麗に並べられていた。
もちろん遠慮したものの、もう準備がしてあるからと押し切られてしまった。
ボロを出さずにいられるかしら、と不安に思ったのも初めだけ。
ケーキを食べ始めれば、あっという間に幸福な気持ちになる。なんて美味しいタルトなの。
「やはり、君は好きだと思ったんだ、このケーキ。パーティーでもいつも食べているだろう?」
「まあ、まるで食べ物にしか興味がないみたいに」
「本当のことだろう? ダンスなんか嫌々だったろう。……次は、俺が誘ったら踊ってくれるか?」
「言いましたよ。評判の悪い女と踊っては、不都合がありますよ、と。そもそも顔見知り程度では踊りません。ダンスなんて嫌々ですので」
「おや、今、一緒にケーキを食べ、花を愛で、お茶を共にしているのに? 顔見知り? 友人の間違いじゃないか」
断る隙も与えず、用意周到に準備されたティーパーティー。
嵌められたと気付いたものの、悪い気は、一切しなかった。
フレデリアンの目が、私に興味を示している。それだけで満足できる。
「…………では、知人ということで」
「おお、格上げだ。光栄だね」
彼のふわりと笑った顔が、社交場で見る時より柔らかで。
まるで特別なものを見たように、屋敷に戻ってなお、頭から離れてくれなかった。
◆
社交シーズンは忙しい。
父の負担を減らすためにも、婚約者候補は探した方が良いかもしれないと、パーティーには進んで参加した。決して料理目当てではない。
もぐもぐと口を動かしながら、遠目にフレデリアンを鑑賞したいところだが、残念ながらできずにいた。すぐ隣にいるからだ。
「まあ、この前、婚約破棄になったと思ったら、今度はフレデリアン様と!?」
「薔薇の花は、男性を虜にするのもお上手なようで」
扇で顔を隠しながら、はたまた後ろを向きながら、誰が言っているのかわからないようにしつつ聞こえるように言う令嬢たちに文句を言うつもりはない。仕方ない、彼女らは他人のことまで気になる人種なのだ。
「……フレデリアン様、何か小鳥のさえずりが聞こえるのですが、気が散るので離れていただけませんか」
「おや、そうだね。少しうるさいかな? 追い払ってこようか」
「——結構です。そんな、まさか、フレデリアン様のお手を煩わせるわけにもまいりません」
「友人なのだからいいだろう?」
「ほほほ、ご冗談を。知人、ですわ」
余計な勘ぐりは避けたい。『友人』の響きには密かにときめきを覚えつつ、即座に訂正した。
顔を緩めるわけにはいかないので決して気の抜けない時間ではあったが、美味しいものを食べ、フレデリアンの声も聞けて、楽しい時間でもあった。
ちょうど食後のオレンジジュースを堪能した時、新たに声をかけられるまでは。
「リーディエ! パーティーによく出席しているというのは本当だったんだな……! 探したぞ!」
「あら。クリス様、ごきげんよう。そのように眉を吊り上げて、あんまりじゃありませんか?」
息を切らしたクリスが、手紙を握りしめて突きつけてきた。彼に会うのは婚約破棄を言いつけられてから初めてのことだ。自慢の髪型が少し崩れて、毛先が跳ねている。
「バレリー伯爵家から、婚約解消の手紙が届いた! 一体どういうことだ!」
「どういうこと、と申されましても。そのように仰られたのはクリス様ではございませんか。それもパーティーの最中、皆様の目の前で」
証人はたくさんいるのだと仄めかしても、クリスは手を振り回して言い募る。
「俺は、待て、と言ったぞ! 婚約は破棄しないと!」
「仰って、ましたか? 聞いておりませんでした。けれど、もうお父様から書状が届いたのでしたら、すでに手続きも済んでいるでしょう。それにほら、可愛くない婚約者がいなくなったわけですから、可愛い婚約者を迎えられるじゃないですか。良かったですね」
嫌味も何もない、善意百パーセントだ。
こてん、と首を傾げると、クリスの顔が真っ赤に染まる。そんなに怒らなくたっていいじゃないの。
「違……っ! あの時、可愛くないと言ったのは、俺のために可愛くなればという意味でっとぉお!?」
クリスの眼前を白いマントが遮った。フレデリアンが自分のマントの裾を持ち、はためかせたのだ。
「おおっと失礼。大きな鳥が鳴いていたもので」
「はァ!?」
フレデリアンは私から目を逸らさない。クリスには何一つ興味はないと言うように、それでいて、見せてやるものかと言わんばかりに、私をマントの影に入れてくる。
ああ、本当に、やめてほしい。守ってくれたのだと思ってしまえば、棘なんて全部取れて、顔が緩んでしまうから。
「ちょうどダンスが始まったようだ。友人の、リーディエ嬢。顔見知りではなくなったので、俺と踊っていただけますか?」
これを断ればまたクリスとの面倒なやりとりをしなければならないだろう。
全部、彼の思い通りになるのは癪だけれど。
私は、口にした約束は守るタイプ。
「……知人ですが、私でよろしければ」
クリスとの婚約は解消された。であれば、素敵な思い出の一つ、作ったって許されるでしょう。
手を引かれながら、ステップを踏む。楽器の演奏が周りの雑音を綺麗に消してくれた。
フレデリアンの長い腕に支えられるようにつま先を動かして、視線は彼の鼻の先。絶対に瞳だけは見つめられない。
そんな私の前で、ふ、と笑う気配がした。
「婚約の相手だが、俺では駄目なのか? 俺は婚約をしていない」
意味は分かりかねた。力を込めた眼差しは一層キツくなったことだろう。
「どういうことですか?」
「どうもこうも、だ。バレリー伯爵に、君の婚約相手に俺はどうかと何度聞いても、いい返事をもらえない。伯爵自身もあの男を嫌がっているくせにまだ婚約中だから、と。破棄騒動があった後には娘からは何も聞いていないと。公爵家にも、気になる男はいないとさえ」
お父様の凡庸らしからぬ笑みを思い出す。
家族の前では、自分を守る棘がなかったのかもしれない。もしかして私の気持ちはバレていたの?
目の前の強気な顔は、わざとらしく悲しげに目を伏せた。
「それは本当か? 君の冷静な顔を崩せるのは、俺だけだと、思ってるが?」
「ご、冗談を」
熱くなった手のひらを、すり、と彼の人差し指が撫でる。
どくどくと聞こえる心臓の音は、私のもの。彼には聞こえていないと祈るだけだ。
「どうすれば、その冷静さを失わせることができるのか、俺はいつだって考えているのに?」
卑怯だ。
この顔で、こんなに近くで、こんな言葉を吐かれては。
たった一度の、思い出にする予定だったのに。
「ああ、この顔を——以前ひと目見た時から、俺は何度だって見たいんだ」
欲しかった物をようやく手に入れたような、満面の笑みのフレデリアンは、私にとって極上のご褒美だけれど。
うっすら開いた口と緩んだ目元をぎゅっと引き締めた。
そう簡単に、見せられない。飽きられては困るのだ。
「……一体どんな顔だと言うんです。いつもこんな顔でしょう。冷たいと言われる顔を見たいなんて悪趣味ですね」
まだ私は棘を手放せない。
——けれど。
「婚約のお話は、お父様にお伝えしておきますわ」
フレデリアンの手もまた、手放せないのだ。
ステップを踏みながら首を伸ばしてフレデリアンに顔を近づける。驚いた彼の黄金の瞳を見つめながら、感じた愛おしさの全てを封印して、口端を上げてやった。
さて、今の私の顔は、彼が待ち望むものかしら。




