第一話 禁忌指定番号 0x92
禁忌図書指定員。
それは職業名であり、
同時に――墓標のような呼び名でもあった。
彼らに名は与えられず、履歴は残されない。
記録されるのは、ただの番号のみである。
「殉職」という語は、彼らには当てはまらない。
正確ではないからである。
彼らは“死ねない”。
壊れることすら、許されない。
肉体が朽ち、人格が溶け、
思考の輪郭が削られ尽くしてなお、
彼らは死なない。
死は、人の特権である。
理由は、単純だった。
禁忌図書は、減らない。
増えるのみである。
封印しても、消えない。
焼却しても、失われない。
隔離しても、眠らない。
むしろ、封印されるほどに、
その「存在」は、濃度を増す。
書架の奥で、
箱の底で、
電子化された記録の深部で、
それらは待ち続けている。
読まれるのを。
否。
“知ってしまわれる”のを。
――これは、その一冊である。
禁忌指定番号0x92。
通称――黒い液状の禁書。
固形でないにもかかわらず、背表紙を有し、
頁を有する。
本として存在し得ない構造であるにもかかわらず、
人間の認識は、
それを“本”として理解してしまう。
透明強化ガラスの向こうに、
それは“格納されていた”。
そう認識していない人間が、
ただ一名存在していた。
指定員番号――第零三壱番。
当該指定員は、
対象が隔離されているという前提そのものを、
最初から信じていなかった。
管制室の声音が、
機械的に響いた。
「対象、安定しています」
隔離室の空気は乾燥しており、
異常数値は観測されていない。
だが、第零三壱番は、それを「正常」とは認識していなかった。
当該指定員は、自己発火能力の保有者である。
燃焼は防御ではない。
生命活動維持のための、最低限の条件であった。
「認識許可、出します。」
認識許可と共に、探査機器が再起動された。
その直後、変化が発生した。
黒い液体が、既に第零三壱番に接触している。
第零三壱番に自身を読ませようとしている。
だが、そこに記号も、文字も、可視的言語も存在していない。
それにもかかわらず、
意味のみが、脳内へと流入した。
第零三壱番は、それを“読了”する前に燃え上がった。
次の瞬間、警報音が知覚された。
それは新たに鳴動したものではなかった。
初めから鳴動していたものが、ようやく知覚可能になったに過ぎない。
隔離室の床面には、第零三壱番の影が存在しなくなっていた。
視認可能なのは、焼灼痕と思しき黒色の歪曲のみである。
空間中央には、黒い“液状の構造体”が存在していた。
構造体自体は、特定の物質に分類不可能であった。
だが、人間の認識は、それを「本」として把握していた。
可愛らしい声が響く。
「第零三壱番、応答しなさい。初動封印を実行するわ。」
次の瞬間、現実構造が歪み始めた。
隔離室内が、発火した。
発火源は存在しない。
空間そのものが、燃焼している。
その中心に、第零三壱番が存在していた。
黒い液状の構造体が、ゆっくりと蠢動を開始する。
移動しているのではない。
空間への浸透が進行している。
床に触れ、壁に滲み、天井へと這い上がる。
構造体そのものが広がっているのではない。
構造体が、空間へと侵食しつつある。
黒液領域である。
しかしながら第零三壱番の燃焼も、加速する。
第零三壱番の火はただの火ではない。 概念そのものに火を付けられる。
だから炎は、周囲の空間そのものを燃やし、黒炎領域と化し。弐つの黒き領域は衝突した。
蒸発は起きない。
だが、確実に、後退が発生していた。
黒炎領域が、僅かに縮退する。
それに呼応するように、炎の密度が上昇する。
第零三壱番の存在座標を中心に、空間の分子構造が分離を始める。
壁面の一部が、“壁であった”という現実ごと、消失する。
重力勾配が乱れ、床の定義が崩れる。
上下の区別が、連続的に上書きされていく。
黒液領域は、なおも浸潤を継続する。
―――――黒液領域の本質とは。
同化である。
だから―――――
第零三壱番の燃焼は、攻撃ではなかった。
防御と拒絶である。
拒絶対象は、物質ではない。
存在形式、そのものである。
黒色と高熱が、合理性の外側で衝突を続ける。
情報構造が、焼き切られていく。
それでも、黒い液は止まらない。
炎に焼かれているのに、尚、前進してくる。
第零三壱番の身体が、音もなく分解を始める。
原形質が失われ、器官が消散し、骨格が融解する。
だが、その過程と同時に、再構築が始まる。
破壊と再生が、同一空間で交錯する。
同一時間軸で、相互に殺し合っている。
第零三壱番は、すでに人としての形式を失っていた。
だが、炎の中心に、なお「第零三壱番」が在った。
禁書は、炎の基点であるその座標へと、わずかに収束を始めていた。
すなわち――
第零三壱番自身が、封殺の“器”として機能し始めていた。
空気、床、光、距離――
すべてが、一つの点に向かって収束していく。
だが、変換の対象は、禁書「そのもの」ではない。
歪曲されたのは、禁書の存在する“空間”そのものであった。
周囲数メートルの実在が、箱状構造へと変換される過程で、
第零三壱番もまた、同一空間内に巻き込まれる。
結果として、禁書と第零三壱番は、箱になった。
やがて、掌サイズの小箱が出現する。
次の瞬間、当該小箱は、燃焼を開始した。
外部からではない。
内部からである。
炎の発生源は、
常に第零三壱番の座標と一致していた。
禁書と空間構造は、
炎熱により位相崩壊を始める。
管制室より、報告が上がる。
「封印工程、影響範囲消失を確認。
第一段階、完了」
隔離室内は、沈黙に包まれた。
小箱は、温度変化を示している。
小箱の外殻に、変形が確認される。
小箱の縁部が発火し、新たな構造体が形成され始めた。
まず、骨格が見え、次いで肉の焼ける匂いが満ち、血が蒸発する臭いが展開されていく。
端的に言って、不快な匂いである。
外部からの介入は、確認されていない。
やがて、皮膚が生成され、
顔面構造が完成する。
そして胸郭の膨張が観測された。
呼吸の再起動である。
一定時間経過の後、
再生体は、自ら発火しなおし、服が出現する。
指定員番号、第零三壱番。
生体反応、正常範囲内。
精神構造、
調査不能。
「封印完了。上層部には、そう報告してくれ」




