算聖、現代社会に降り立つ
雨が強くなってきた。
男は、疲れた目で川の流れをじっと見つめていた。
――私は、果たして十分に勤めを果たせただろうか。
藩主様に仕え、藩の財政にこの身を捧げ、算術の探究を深め、弟子たちにその極意を伝えてきた。
いまはその職を辞し、静かな余生を送っているが……どこか、この胸の奥では、再び算術に向き合いたいと思っているのかもしれない。
その瞬間だった。
真っ白な光が全身を貫き、世界が一気に暗転した。
***
僕はN県K市にあるH中学校に通っている、ただの中学生――竹内一数。
今日は下校中で、雨はどしゃ降りだ。早く帰らなきゃ。
足早に歩きながら、いつものように川沿いの道を通る。
川の水は濁流のように音を立てて流れていて、足元までしぶきが飛んでくる。
そのときだった。
上流の小さな橋のあたりに、雷が落ちた。
「うわっ!」
僕は思わず身をかがめ、耳をふさいだ。
少しして恐る恐る顔を上げると――そこに、うつ伏せで倒れている人がいた!
急いで駆け寄ると、その人は年季の入った和服を着ていて、片方の下駄がぬかるみに転がっていた。
倒れた拍子に脱げたのだろうか。まるで時代劇から抜け出してきたような格好だ。
どうすればいい? ここは田舎で、近くに人なんていない。
「……おーい……一数かや?」
聞き覚えのある、ゆっくりとした声がした。
近くを、僕のおばあちゃんが軽トラで通りかかったのだ。
「おばあちゃん!? なんでこんなとこに?」
「んやぁ……ちょいと畑の様子を見にきたんさ。
ここんとこの大雨でなぁ、稲がすっかり流されちまって……こりゃ、今年は収穫んねぇべ」
軽トラのエンジンを止め、おばあちゃんはのんびり降りてきた。
「それより、その人……どしたん? 倒れとるけど……雷でも食ろうたか?」
僕がうなずくと、おばあちゃんはしばらく黙って、男をじっと見つめた。
そして、ゆっくりと言った。
「ほんなら……ほれ、荷台に乗っけな。
うちで介抱すっぺ。
……まあ、雷に打たれて生きとるっちゅうのは、まんず奇跡やけんどな」
おじさんを荷台に乗せ、僕も荷台に乗ったまま車は家を目指した。
畑のど真ん中にぽつんと佇む、無駄に大きくて年季の入った家。
それが僕の家だ。
風が吹くたびにギシギシ音を立て、窓は閉めてもすき間風が入ってくる。
正直、友達に見せるのはちょっと恥ずかしい。
軽トラは、ぬかるんだあぜ道をガタガタと揺れながら進み、家の前に止まった。
荷台には、さっき拾った――いや、“助けた”男が、毛布にくるまって横になっている。
「よっこらしょっと……ほれ、一数。玄関、開けな」
おばあちゃんののんびりした声が雨音にまぎれて響いた。
夕方、雨は少しだけ落ち着いていた。
僕とおばあちゃんは、囲炉裏の隅で遅めの夕食をとっていた。
「にしても、不思議なこともあるもんだねぇ……」
「うん。なんか、夢みたいな感じ」
そんな話をしていた、そのとき――
**ドンッ!!**
二階から大きな物音がした。
机をひっくり返したような衝撃音。僕は箸を放り投げ、階段を駆け上がった。
ふすまをゆっくり開けた瞬間、叫び声が飛び込んできた。
「何やつだ! ここはどこじゃ!!」
父さんのジャージ姿の男が、部屋の真ん中で仁王立ちしていた。
目を見開き、眉間にしわを寄せ、まるで敵を前にした武士のようだった。
「お、落ち着いて! おじさん、たぶん雷に打たれたんだよ!記憶が混乱してるのかもしれない!」
必死でなだめながらも、男は自分の服を見下ろし、さらに混乱した。
「な、何じゃこの格好は!?私の着物はどこだ! この布……肌にまとわりついて気味が悪い……!」
「いや、それ濡れてたから脱がせて……っていうか変な言葉遣い……」
そのとき、おばあちゃんがひょっこり部屋をのぞいた。
「おや、起きたんかい」
「誰だ、お前らは!名乗れ!」
「ぼ、僕は、竹内一数、そしておばあちゃんの竹内かず」
おばあちゃんは、にっこり微笑んだ
「お前さん、名前はなんというのかね?」
「わ、私は、関孝和、江戸で隠居の身にあるものだ」
「たかかず、少し僕の名前と響きが似ているね」僕は、ハハと笑った。
するとおばあちゃんが
「お前さん、和算やってた人かや?」
僕は、「和算?」
するとおじさんは、
「和算?、算術はやっていたが…。それより、助けてくれたのか。まずは、お礼を言う。助かった。雨の中、川を見ていたのだが、気がついたらここにいた。」
おばあちゃんは、ふふっと笑って「これも何かの縁かね…. 。ほれ、下に夕飯があるから食べな」
「かたじけない。」
おじさんは、少し表情を柔らかくしておばあちゃんについて部屋を出て行った。
変なおじさんが僕のうちに来てしまった。