- 5 - 抽出と心の機敏 2
その興奮の熱量に、3人は内心苦笑しかけたが、表には出さずに水盤を受け取った。
「……過労の廃人に鞭打つニュースだな。ありがたいこった」
局長小さく息を吐きながら、額に手を当てるレンを横目で捉えてから水盤に目を落とす。
表示されたデータの羅列は確かに、昨日までのものとは異なる構造を持っていた。
レンと王子も横から覗き込み、静かに目を細めた。
「……確かに、違いがある。どこから?」
問いかけに、エオスはまるで誇らしげに胸を張った。
「前回とは別ルートから取得しました。水盤の底層に沈殿していた断片から分離して……!」
矢継ぎ早に説明を続けようとするエオスを制し、局長は手のひらをひらりと振った。
「細かい話は後だ。……まずは座らせろ。ここで過労の2人に、立ったまま倒れると後始末が面倒だ」
言いながら、レンは廊下奥の簡易会議室へと無言で歩き出す。
疲れは確かに身体を蝕んでいるが、頭はまだ冷静だった。
局長は肩をすくめ、王子は静かに苦笑して後に続いた。
―――――――――
会議室の椅子に腰を下ろすと、レンは局長から受け取った水盤を無造作にテーブルへ置き、エオスに向き直った。
「……すごいな。短時間でここまで進めるとは、驚いたよ」
言葉自体は素直なものだったが、声色はどこか乾いていた。
レンの視線は水盤とエオスを交互に鋭く見やる。
成果を認めながらも、同時に胸の奥底にうっすらと広がる不安を押し殺しているのが、彼の目からは読み取れた。
王子も隣で穏やかな笑みを作り、やや硬い声で続けた。
「素晴らしい働きだ、エオス。君の努力がなければ、我々はここまで来られなかった」
局長もどこか調子を合わせるように、にやりと笑った。
「若いってのはいいな。体力も気力も無尽蔵か。……少しだけ、羨ましいぜ」
エオスは三人の賞賛に目を輝かせ、さらに勢いづいた。
「いえっ、まだまだです! 嬉しくなって、昨日からずっと……夜通し作業してたんです。寝るのも忘れちゃって……!」
そう言って、はにかむように笑う彼女を見て、三人の間に目に見えない緊張が走った。
ジョッシュは、わずかに目を細めると、ゆっくりと息を吸い、吐いた。
そして、低く、しかし有無を言わせない口調で言った。
「……今日の作業はここまでだ。今すぐ部屋に戻って寝ろ。
ついでに、週末いっぱい、研究所への立ち入りも禁止する。いいな?」
エオスはきょとんと目を瞬かせたが、すぐに気まずそうに目を伏せた。
「で、でも……まだカケラが取り出せそうなところがあって……」
「聞こえなかったか?」
ジュッシュの声はさらに冷たく、静かになった。
いつもなら軽口を交えるところだが、今の彼には一切の遊びがなかった。
エオスは縮こまるようにして、か細い声で答えた。
「……わかりました」
それを聞いたジュッシュは、ようやくわずかに力を抜いた。
「よし。約束だ。……お前まで倒れたら、面倒だからな」
皮肉めいた言葉に、エオスは苦笑いを浮かべた。
とりあえず茶でも飲もうと声をかけるとエオスが反応する。
会議室の隣の給湯室へと向かう彼女の背中を、三人は無言で見送った。
扉が静かに閉まると、レンは肘をつき、疲労を隠そうともせずにため息をついた。
「……あの年頃は、嬉しいと歯止めが利かねえ」
ジョッシュは苦笑しながら、椅子の背にもたれた。
「……ここで働く奴の誰もが通る道だな」
レンはただ静かに頷きながら、水盤に目を落とした。
その眼差しの奥には、消えない不安と焦燥が滲んでいた。
―――――――
レンたちは水盤を見ながら、改めてカケラの精査について話していると
扉が控えめにノックされた。
「……あの」
茶と持って戸口に立っていたのは、エオスだった。
彼女は、先ほどまでの勢いと元気はどこに行ったのか打って変わった、どこかしょんぼりとした顔をして、茶を机に置きながら話し出した。
「すみません……さっきの話ですが、伝え忘れたことがあって……」
局長は肩をすくめるようにしながら、手をひらひらと振った。
「茶をありがとう。用件だけなら、さっさと話せ。……そしてそのまま直帰だ」
エオスは小さく頷きながらも、声を出せずにいた。
休むよう命じられたことが、彼女なりに堪えているのがありありと見て取れた。
その様子に、王子はわずかに眉をひそめた。
そして、ふっと柔らかく笑うと、自然な仕草で言葉を挟んだ。
「エオス。もしよければ、明日の午前、少しだけ外に出ないか?」
唐突とも思える提案に、エオスは目を丸くした。
「……え?」
王子は穏やかに続けた。
「気分転換だ。ずっと屋内で作業続きだっただろう。
私も、明日の午前なら少し時間が取れる。……一緒に、街を歩こう」
先ほどまでの沈んだ空気が、ゆっくりと和らいでいく。
しかしエオスは、かすかに狼狽えたように言葉を選んだ。
「……あの、そんな……わたしなんかが、王子と一緒に外出なんて……」
どこか恐縮した様子で、遠慮がちに頭を下げる。
「……いいんですか?」
「もちろん」
王子は微笑んだ。
その瞳には、穏やかさの奥に、かすかな親しみが滲んでいた。
(――研究の話を、飽きずにできる人間。そんな相手と、ずっと一緒にいられたら――)
そんな考えが、王子の胸の奥に、静かに、しかし確かに芽生え始めていた。
だが、彼自身、それをまだ意識の表層では明確に捉えきれてはいなかった。
それに対し、レンはため息混じりに首を振った。
「長くここにいる気があるなら、街ぐらいは知っとけ。
研究所から一歩も出ない生活なんざ、脳みそがカケラなって水盤に溶ける」
エオスが困ったようにこちらを見ると、今度はジョッシュが口を挟んだ。
「安心しろ。……レンにも調整かけておく」
ジョッシュは意図的に軽い口調を選びながら続けた。
「せっかくだから、“レディ向け”の洒落た場所なんぞ抜きにして、
こいつらが素直に喜びそうなとこ、案内してやれ。
……そんくらい、局としてもケアしなきゃならん」
レンは半眼でジョッシュを睨んだ。
「……要するに、面倒な役回りを押し付けるってことか」
だが、ジョッシュは悪びれず肩をすくめる。
「心配すんな。
お前の部門には、正式に即戦力を二人、補充する。
負担は確実に軽くしてやる。……な?」
一瞬だけ、レンはいないだろうと不満を隠さない顔をしたが、
何か目的があるのだろうと口には出さず、ただ無言で視線を逸らした。
エオスは、ようやく小さな笑顔を見せた。
「……はい。ぜひ」
王子は微笑を浮かべたまま、その小さなやり取りを見守っている。
ジョッシュは時計をちらりと確認すると、声を短くまとめた。
「じゃあ、そうだ。エオス飯は食ったのか?食ってないなら2人一緒に朝食ついでに、明日の話でもしてその後戻って休め。絶対休めよ?」
そう言い残すと、ジョッシュはローブの裾を払って向き直り、
別棟へと足早に去っていった。
ジョッシュが向かう先は、直属の上層部との極秘会議――この一件の影に潜む、
さらなる火種について、密かに協議する場だった。
それを見届けると、レンは椅子に深くもたれかかり、ひと言だけぼやいた。
「……ま、良い息抜きにはなるだろ」
扉が再び静かに閉まった後、レンは水盤を手に取りながら、無言で王子を一瞥した。
「……お前、わかってんのか?」
それに対し、王子はあくまで涼しい顔をして応えた。
「……何のことかな?」
だが、その声には微かな照れが滲んでいた。
―――――――
エオスは依然、気後れしたまま俯いていたが、
王子がにこやかに、しかしごく自然な調子で促した。
「……さ、行こう。
私も、ここの食堂を使うのは初めてだから、案内してほしい」
エオスは顔を上げ、恐る恐る頷いた。
レンは肩をすくめると、
気怠そうな足取りで先に立った。
「……ったく。
朝からガキの遠足とはな」
毒気のあるひと言を残しつつも、その歩調は、
ふたりがきちんと追いつけるよう、僅かに緩められていた。
食堂へ向かう途中、
すでに出勤してきた若い研究員たちがちらほらと姿を見せ始めていた。
誰もがまだ寝起きの顔をしていたが、
レンたちを見つけると、
驚いたように立ち止まり、軽く頭を下げたり、手を振った。
空気は、まだ朝の冷たさを含みながらも、
どこか新しいものを迎える期待に、微かに揺れていた。
レンは小さく鼻を鳴らすと、歩を進めた。
……どうせ、今日一日は慌ただしくなる。
その前に、せいぜい腹ぐらいは満たしておくか
そんな独りごちを、誰にも聞こえないように、
彼は心の中だけで呟いた。




