むすび
「────こうして少女は初めて、愛することの大切さに気付いたのです」
少女のように目を輝かせた人形師が、一人の旅人と暖炉の火を囲んで、じっとお話を聴いていました。
「たとえ共に生きられなかったとしても、それでも笑って、幸せに生きていてほしい。戦争が終わり、何年も経ってようやく……彼が遺した最後の想いは、ようやく少女に届いたのでした」
今日も旅人は、旅先で出会った物語のひとつを、人形師に語って聞かせていました。
「悲しい、悲しいお話ですね。大切なものほど、喪って初めて気付くものですから。せめてその少女が、今も幸せでいると良いのですが……」
ほう、と小さく息を吐いて、人形師はゆっくりと呟きます。
「残念ながら、これは人から聞いたお話なので、その後の彼女がどうなったのかは存じません。風のウワサでは、名のある代筆屋として活躍しているとか。ですが……案外、実は生きていた大切な人と、どこかで再会しているのかもしれませんね」
やさしくふわりと微笑んで、旅人はそう答えました。
彼が毎晩のように、人形師の元を訪れるようになってしばらく。
旅人の話を聞くたびに、人形師はより一層「もっと聞きたい、もっと話していたい」と感じます。
「と、今日のお話はここまでです。……どうですか? そろそろ、人形をお作りいただける気にはなりましたか」
少しイタズラっぽい微笑みとともに、旅人は彼女に訊ねます。
「……まだです。まだまだ、聞き足りないですから」
実のところ人形師はとっくに、彼のためなら人形を作ってあげても良いと、そう思うようになっていました。
彼の語る世界はとても魅力的で、美しく、時に悲しいこともあるけれども。
そこには人の優しさや温かさが、確かにあると感じられたからです。
人形師は、そんな世界に想いを馳せて、今日も綺麗な折り鶴を手折ります。
「相変わらず、美しい鶴ですね。きっと、貴女の心を映しているのでしょう」
「物は、つくる人の心を映す鏡なのです。それは折り鶴も、人形でも変わりません」
彼が褒めてくれるたび、いつも人形師はぽかぽかと胸の奥が温かくなってしまいます。
「また明日も聞かせてください。わたくしは、あなたのお話を聞くのが好きなんです」
こんな時間がいつまでも続いたらいいのにと、人形師はまるで少女のように、ついそんなことを思ってしまうのでした。
ですが突然、旅人はどうしようもなく悲しそうな顔をしました。
「とても残念ですが……そうすることができないのです」
非常に重苦しい面持ちで、旅人は言葉を続けます。
聞けば、遠くの国で戦争が始まり、彼の友人が待つ故郷の国も、戦火に巻き込まれそうだと言うのです。
「私は、すぐにも帰らないといけません。私は旅人の身ですが、あの国にはお世話になった人や、大事な思い出もたくさんあるのです」
そう言って、旅人は人形師に別れを告げます。
もう一度、ここに戻って来れるかどうかも分からない。
そんな彼の言葉を聞いて、
「待って!」
人形師は思わず叫んでいました。
これまで出したことのないような、とてもつらく、悲痛な声でした。
「行かないでください……! あなたのためならわたくしは、人形だってつくります。だからどうか、いかないで」
どうか、どうか、と彼女は旅人に懇願します。
今や彼女にとって、旅人と過ごすこの時間は、何よりも大切なものになっていたのです。
彼がいなくなってしまったら。
もう二度と、会えなくなってしまったら。
そう思うと、人形師は胸が張り裂けそうになるのでした。
「ありがとう。でも、大丈夫です。私には────いえ。僕には、貴女がくれたこの鶴がありますから。折り鶴というのは昔から、願いを叶える力があると言われています。貴女が願ってくれるのであれば、きっと帰って来られるはずですから」
切ない涙を流す彼女に、旅人はやさしくそう答えます。
「……でしたら、わたくしは毎晩鶴を折り続けます。あなたのために、素敵な人形をつくりながら」
旅人の決心を覆せないと悟った人形師は、涙ながらにそう告げて、彼を送り出すことにしました。
「なら、その鶴が千羽になるまでには、必ず貴女のところに帰って参ります」
「……約束ですよ? わたくしは、ウソをつく人は嫌いです」
「必ず。僕も、貴女に嫌われるのはイヤですから。約束です」
そっと小さく手を握り、万感の思いを込めて、二人は別れを告げました。
それから毎日、人形師は心を込めて人形をつくりました。
遠い国での戦争は、やがて多くの国を巻き込み、大きな戦いになりました。
伝え聞くのはその悲惨さと、多くの人が犠牲になったという、傷ましいウワサの話ばかり。
それを聞くたびに人形師は、あの人の身にも何かあったのではないかと、もう気が気ではありませんでした。
「どうか、ご無事でいてください」
人形師は毎晩、毎晩、祈るように鶴を折り続けます。
やがて戦争は終わり、再び平和が訪れましたが、それでも彼女の心は晴れませんでした。
なぜなら、あれからもうすぐ三年になるのです。
夜な夜な折り続けた折り鶴は、じきに千羽に届きます。
それまでに帰るという彼の言葉を、人形師は信じていましたが、それでも一晩、また一晩と過ぎる寂しい一人の夜に、彼女の胸は押しつぶされそうになるのでした。
そして、彼の約束した千夜の晩まで、あと一日。
彼への想いを詰め込んだ、最高の人形が完成したその日。
「────ただいま、戻りました」
人形師の耳元に、ずっと聞きたかったその声が届いたのです。
はっとして戸を開けると、そこには懐かしい、あの人の姿がありました。
「おかえりなさい……! ずっと、ずっと、会いたかった」
彼女は涙を溢れさせながら、ぎゅっと大切な人を抱きしめます。
「お待たせして、すみませんでした。この通りケガをしてしまいまして、ここまで来るのにもひと苦労だったのです」
見ると、ボロボロの服を着た彼の左腕は、肘から下がありません。
戻った故郷が戦火に飲まれ、逃げ遅れた人たちを助けるために、戦いに巻き込まれたのだといいます。
「貴女にこんな姿を見せて、悲しませるのは心苦しいですが」
「いいえ、いいえ! あなたが無事でいてくれただけで、わたくしは……それでいいんです」
服の下に隠れた、片方が欠けた腕は確かに痛々しいものでした。
それでも、彼がこうして元気な姿を見せてくれたことに、人形師は胸がいっぱいで、いつまでも涙が止まりません。
「貴女に頂いたこの折り鶴も、一つを残して燃えてしまいました……ですが、この鶴が、僕を守ってくれたのです」
聞けば、野戦に巻き込まれた夜、鶴たちがまるで意思を持ったかのように、燃えながら彼の手元を飛び立ち、敵の兵士たちの注意を引いて、逃げ遅れた人々と旅人を逃してくれたのだといいます。
「不思議なこともあるものですね。まるで、おとぎ話の出来事のようです」
「僕は、貴女にウソをついたことはありませんよ?」
「そうですね。折り鶴も、この子を合わせてちょうど千羽です。なんとか、ウソにならずに済みましたね」
人形師は、泣き腫らした目から涙を拭いながら、正にいつぞやの旅人のように、イタズラっぽく笑顔を浮かべました。
ウソか本当か分からない。
かつては旅人の話さえ、信じられずにそう言っていた人形師でしたが、今ではもう心の底から彼のことを信じられます。
「あなたはわたくしを信じさせて────わたくしに、幸せを教えて下さいました。ですから……これを。あなたであればこの子を、わたくしの大切な子供をお任せできます」
そう言って人形師は、完成したばかりの人形を差し出します。
再会した二人を祝うように、優しい微笑みを浮かべたヤマト人形。
傍には、千夜を越えて折り綴られた、願いを叶えた手折り鶴。
「ありがとうございます。これで友人も、彼らの娘さんも喜びます」
そう言って旅人は、世に二つとない見事な出来栄えの人形を、大切に大切にしまい込みます。
「この子を故郷のご友人に届けて……あなたはその後も、旅を続けるのですか?」
「ええ。僕は旅人ですから。これからも、風の向くままに旅をして、たくさんの美しいものに出会うのです」
彼は、これからも世界をあちこち旅をして、たくさんの景色と新しい物語に出会うのでしょう。
それは時に辛く苦しく、しかし多くの出会いと驚きに満ちた、素晴らしい旅になるのでしょう。
人形師は、少しだけ彼の腕に目を向けてから、それからグッと拳を握りしめると、意を決して────その想いを口にします。
「わたくしも、その旅に────連れていって下さい!」
彼女は、今までずっと小さな世界で、ただひたすら人形をつくり続けていました。
これは、そんなひとりぼっちの少女が初めて抱いた、まだ見ぬ世界への憧れでした。
「でも、貴女には人形づくりが……」
「旅先でも人形はつくれます。わたくしは、わたくしの子供たちが見てきた世界を、今度はちゃんと、自分のこの目で見てみたいのです。あなたが教えてくれた美しい世界を、自分の足で旅してみたいんです」
人形師はそう言って、子供のような無邪気な目で旅人を見ます。
「だってわたくしはもう、知ってしまいましたから。この世界がキラキラ輝いていて、素敵なもので満ちていることを。だから今、とてもワクワクしているんです。これは、あなたのせいなんですよ?」
彼女の胸は今、たくさんの想いで溢れていました。
これからの旅で出会う、たくさんの人々。
いつか見てみたい、彼が生まれ育った故郷の風景。
話に聞いた、この世のものとは思えない、素晴らしい景色の数々。
そして……大切なこの人と過ごす、幸せな毎日のことを。
「それにその腕では、あなたも一人での旅は大変でしょうから。一緒に旅をしてくれる人が、いた方が良いんじゃないですか?」
「……そう言われてしまっては、もう何も言えませんね」
旅人は少しだけ困ったような顔をしましたが、やがてすぐに優しい笑顔を人形師へと向けました。
「僕に、ついてきてくれますか?」
「…………はい」
とある昔、ひとりの旅人とともに、各地を旅して回る人形師がおりました。
彼女のつくる人形は、まるで生きているようだと専らの評判で、迎えた人を幸せにする、優しい妖精の宿り雛とさえ呼ばれておりました。
しかし、それも当然のことなのです。
その人形たちの生みの親は、まだ見ぬ世界への好奇心と、子供たちへの愛情に満ちた、世界でいちばん幸せな人形師だったのですから。
彼女が残した作品は数多に上り、時に各地の文化を取り込みながら、世界中で多くの人たちに愛されました。
ですが、彼女の最高傑作とされるヤマト人形だけは、未だにその存在さえ謎に包まれています。
一説には、とある少女の元に友達として迎えられ、やがて彼女がおばあさんになり、そして今ではその孫へと、大切に受け継がれているとかいないとか。
これはいつか、遠いどこかの国で生まれた、幸せな人形たちのお話です。