つながり
「お断りします」
旅人の真摯な頼みに、それでも人形師は悲しそうに首を振ります。
「大切にするから、人形を譲ってほしい」。
そんな言葉を、人形師はこれまで何度も聞いてきました。
ですがある時、そうやって手に入れた人形たちを、簡単に売り払ってしまったという人の話を聞いたのです。
彼女はまるで裏切られたような気がして、悲しくなりました。
胸が痛くなるような事情を聞かされ、快く人形を譲り渡した大商人が、そのあとすぐに王様へと、貴族となるために人形を献上したと聞いた時。
人形師はもう、何も信じることができなくなったのでした。
「わたくしは、世の中というものを知りません。友人の娘さんのためという、あなたの話が本当なのかどうか……いえ。この世界が、わたくしの大事な子供たちに、見せてあげるほど価値のあるものなのかどうか。今のわたくしには、もう何も信じられないのです」
人形師はそう言って、悲しそうに頭を振ります。
彼女は自分の大切な人形たちを、不幸せな目に遭わせてしまったことを、ただ辛く醜い世界に送り出してしまったことを、この上なく後悔しているのでした。
人形たちの生みの親である彼女自身が、誰よりもこの悲しい世界に嘆き、失望しているのです。
それゆえ、人形師は人形づくりを辞めてしまったのでした。
誰も信じられない自分には、幸せな人形を生んであげることなどできないのだと、彼女は理解していたからです。
子が親の愛を受けて育つように、人形師が優しく正しい愛情を注いであげられないのでは、幸せな人形など生まれてくることはできないのです。
「────そうですか。それは……とても、悲しいことですね」
彼女の苦しい胸の内を聞いて、旅人はとてもやるせなくなりました。
彼は、各地を旅して回る旅人です。
旅の空での生活は大変なものですが、同時に様々な景色を見て、この世には良いこともたくさんあるのだと知っているからです。
この世界は醜く悲しいことも多いですが、それと同じくらい美しく素晴らしいものがあるのだと、彼は知っているからでした。
「でしたら私が、貴女にこの世界の素晴らしいものを教えて差し上げましょう。旅人として旅をする中で、見聞きした面白いことをお話しします」
そう言って旅人は、姿勢を崩してぽつりぽつりと語り始めました。
「これは、私が旅をし始めたばかりの、駆け出しの頃のお話なのですが────」
そうして旅人が語った物語は、世にも愉快な冒険譚でした。
「────と、このように私の先輩の冒険家は、いつの間にか悪徳貴族の企みを、打ち砕いてしまっていたのです」
面白おかしく、時に冗談も交えながら語る姿は堂に入ったもので、吟遊詩人も斯くやという、さても見事な語り口です。
「とても楽しいお話でした。作り話がお上手なのですね」
「おやおや、作り話ではありませんよ。私はどうも生まれてこの方、ウソをつくのが苦手なようでして。この話をする時は、つい彼らの名前をうっかり口に出してしまわないかと、いつも冷や冷やするのですよ。『恥ずかしいから言いふらすな』と、彼は常々言っていたものですから」
「まあ」
たははと笑う旅人の言葉に、人形師は驚いた様子でした。
なぜなら彼の語った物語は、まるで本当のこととは思えないほど、息もつかせぬ想像を超えたお話だったからです。
なにせ、丁稚奉公と変わらないような郵便配達の少年が、あれよと言う間に貴族の諍いに巻き込まれ、背後に隠された陰謀を暴いてしまったというのですから。
「本当なのですか?」
「もちろんです。私が尊敬する冒険家の活躍も、貴族たちのニセモノの婚約騒ぎも、すべて実際に起こったことです」
俄かには信じがたい旅人の話に、人形師は小さく息を呑みます。
「婚約といえば、その婚約を破棄されたお姫様は……?」
「ああ。あのお嬢さんは、直系の子でないことがバレてしまいましたからね。形式上、お家からは追放されて…………今では、元気に彼の奥さんをしていますよ」
「えっ」
人形師は目を丸くします。
貴族のお姫様が市井に下り、名も無き平民の男の子と結婚したというのです。
悪い人たちを懲らしめ、身分の違いも跳ね除けて、助けてくれた人と結ばれる。
そんな夢のようなおとぎ話が、本当にあったというのですから。
「三人のお子さんにも恵まれて、静かに幸せに暮らしています。……まあ、三人目の娘さんは身体が弱くて、友達ができずに寂しい思いをしているのが、最近の悩み事のようですが」
そう言って旅人は、ちょっとだけイタズラっぽく片目を閉じます。
人形師は、思わずため息をこぼしました。
「とまあそんなわけで、ここはその子のためにひとつ、人形を拵えてやりたいと思っていたのですが。どうしてもダメだと言われるのであれば仕方ありません。今晩のところは諦めます」
気が付くと、外はとっぷり日も暮れていました。
言葉巧みな旅人の話に、彼女はすっかり夢中になっていたのでした。
「日を改めて、またお願いに参ります。友人たちのためにも、どうか考えておいていただけませんか」
そう言って旅人は席を立ち、改めて人形師に頭を下げます。
そして、彼が去ろうとしたその時、
「あのっ」
と、名残惜しそうに引き留める声がありました。
「あの……その」
引き留めたのは良いものの、今すぐ続けて「わかりました、つくらせてください」と言えるほど、人形師には決心がつきません。
代わりに、手元にあった色彩鮮やかな色紙を手に取り、綺麗な一羽の鶴を折ってみせます。
「今日のお話のお礼に、これをお持ちください。そして、よかったら……明日もまた、お話を聞かせてください」
旅人は少し驚いたように目を丸くしましたが、すぐにふんわりとやさしく笑って、やがて快く頷きます。
「わかりました。では、これから毎晩お話に来て────この鶴が千羽になるまでに、貴女が私を信頼してくれて、人形をつくっていただけるように。そうなるように頑張りましょう」
それを聞いて、人形師はほっとした表情を浮かべます。
彼女も、今まで長らく一人で過ごしてきましたから、このように楽しくお話できることが嬉しく、この楽しい時間が、今夜ばかりで終わりになってしまうのが寂しかったのです。
「ではまた、明日の夕方に」
「ごきげんよう」
そうして、明日も明後日も、旅人と人形師のたのしいお話は続くのでした。