魔王と天女
日本の、いえ地球の皆さん、シュトラールという国をご存知でしょうか。私は知りません。
国連加盟国百九十三か国の中にあるのなら私の無知を笑ってください。
ところで非加盟国には西暦が通じないなんてことがあるのでしょうか。
ところで……日本以外に日本語を話す国があるのでしょうか。
ところで…………いつから人間の背中には羽が生えたのでしょうか。
「……おい、どうした、大丈夫か?」
目の前にいる男性は心配ではなく怪訝を浮かべて声をかけてくる。
日本語だ。
私は彼の言葉の意味を理解できている。
せめて意味がわからない言語を話していたら混乱が突き抜けていろいろ諦められたのに。
「大変失礼だとは思うのですが、どちら様でしょうか」
「は?」
背中には柔らかな感触、高級そうなベッドに寝る自分、目の前にいる男性。私は今ベッドに組み敷かれている形だ。
しかし記憶喪失にでもなっていたのが今戻ってこの人とはそういう関係か、とは思わないのは手首を掴む力があまりにも強いから。
かといって襲われている感じでもない。
大学の図書館でテスト勉強をしていて、ついうたた寝をしてしまって、起きたときには閉館間際、慌てて大学を出て気付いたときにはこの状況、私よく叫んで逃げなかったな。人間驚きすぎると固まるんだな。
あれちょっと待って、慌てて大学を出て……出たところで、車に、、、
私車に轢かれてるくない?
あれ、これ私死んでる?
「……あの、もしかしてここ天国? あなた天使……っていうより悪魔みたいな羽してますね。まさか地獄……私地獄行きになるような人間でしたかね!? そりゃあそんな特別善良な人間だったかって言われると肯定はできませんけど、特別悪行とかもしてないんですけど!」
バッと体を起こして肩を掴んで訴えたらその人は目を丸くした。
「……一ついいだろうか」
「どうぞ」
悪魔にしては律儀な人だ。
いや人だ、はおかしいか。
裁く側が死人に許可を求めているのも変な話だ。
「俺の名を知ってるか?」
「いえ、ですから、どちら様でしょうかと」
悪魔の名前なんて知らない。
「あ、閻魔様!」
地獄で裁くならその人か、と思って言ったら明らかに間違っているとわかる顔をされた。
「じゃあハデス様?」
確かに閻魔顔じゃないなと思って言ったらそれも違ったようだった。
「えーっと、じゃあ、サタン。デーモン。ベルゼバブ」
「……シンだ。シン・ラモール」
「……誰?」
人間が勝手に決めた名前となんて一致しているわけないってことだろうか。
でも日本人を裁くのは日本人みたいな人であってよ。
概念的な存在なら普通そうでしょ。
「……ちなみに、お前は、自分の名前をなんと認識している」
そういうのって知ってるものじゃないのか。それとも確認だろうか。
「私は」
「リサーナ・フェル・フローレス……だと、俺は認識しているのだが、間違いないか?」
「……誰?」
私、日本生まれ、日本育ち、両親は日本人、当然日本名……のはず、なんだけど。
「……お前だ」
「人違い!? 死神さん人違いです! 私リサーナじゃなくてリサ! 惜しい! でも名字全然違うんだから普通間違えないでしょ!? あなたが死神なのかあなたの部下が死神なのか知らないけど人違いで私殺してます! 生き返らせて!」
「まだ死んでないだろ」
「……え?」
ラモールさんはベッドに落ちていたナイフを拾うとそれを私に向ける。
頬が熱い……痛い。
切られたのだと気付いて反射的に手で傷を押さえる。
ぬるっとした感触がした。
私は呆然と、悪魔のような羽を持つ黒い髪に金の瞳の青年を見る。
「夢からは覚めたか?」
「……痛いのに覚めません」
「お前があまりにも迫真の茶番をするものだから付き合ってしまった」
「それはそうでしょう、演技じゃなくて心からです」
そもそもなぜベッドにナイフが落ちているのか。
なぜ、この人は手から血を流しているのか。
「死んでここに来た。生き返らせて、か」
鼻で笑うと、冷たい金の瞳が私を突き刺す。
首に冷たい金属が触れる。
「お前にとってはここは冥界か。ではお前は冥界の王に刃を向けたということだ」
「……あ、あの、状況が、本当に、わからなくて」
「お前はまだ死んでいない。これから死ぬんだ」
死んでなかったことに喜ぶ間もなく、殺害宣言……
「西暦二〇〇〇年ジャスト生まれ、誕生日十二月十三日、生まれも育ちも東アジアの日本、二十歳、大学三年生、好きなものはスイーツとフルーツ全般、嫌いなものはレバー……えーっと、あとは、A型、左利き、黒髪黒眼、天羽理咲です!」
「…………」
「天に羽、理科の理に花が咲くの咲くで天羽理咲」
「……は?」
ぽかんとしていたその人は、純粋な困惑をこぼした。
「私たぶん死にました。リサーナの前世が“私”で命の危機に前世の記憶を思い出してその代わりにリサーナの記憶がすっぽり抜け落ちたのか、それとも私の魂がリサーナの体になぜか入ってこうなったのか、それとも全然別の理由なのか、それはまったくわかりませんけど、とりあえず私をリサーナではない別の人間だと認識してくれませんか。でないと話がかみ合いません」
「……頭がおかしくなったか?」
「おかしくもなりますよ! 私の世界に羽の生えた人間なんていません!」
頭が痛いという顔をしているが、私もそういう顔をしたい。
あなたが意味がわからないと思っているように、私も意味がわからないと思っている。
「……強いストレスで別の人格が生まれるという話を聞いたことはあるが」
「え、そういうこと? でも私はっきり記憶あるんですけど。え?」
思い出もあるんですけど。
「お前が誰であろうともうどうでもいい。リサーナでもリサでも別の誰かでも、“お前”が俺を殺そうとしたのは事実だ」
「この体があなたを殺そうとしたのは事実でも、この……魂? にはそんな事実ないんですよ! 私にあなたを殺そうとした記憶はありませんし殺す理由もありません」
「それが通用するなら裁かれる罪人など存在しなくなる」
……その通りです。
私も裁判でこんな主張する人見たら精神がおかしくなったか、おかしくなった振りをしているのかのどちらかだと思う。
「一回落ち着いて話しましょう」
「殺そうとした側の台詞ではないな」
……それもその通りです。
「あの、じゃあ、縛ってもいいので。あ、牢屋に入れてもいいです。一回、頭がおかしくなった人間じゃなくて正常な人間という認識で、私と話をしてくれませんか。手当てしてきてからでいいので。他に人を呼んできてくれても、ナイフ首に当てたままでもいいです。お願いします、一度、私の話を聞いてください」
眉間にしわを寄せたその人は、しかし殺気のようなものは消えていた。
「この感覚は何なのだろうな。気持ち悪い。お前が本当に別人に思える。まるで、それこそ本当に……何も知らないまったく別の者の魂と入れ替わったかのような」
ため息を吐くと、ナイフをぽいっと後ろに投げ捨てたその人は、胡坐をかいて空気を緩めた。
それに私がホッとしたら、苦笑をこぼされる。
「お前を殺すのに武器など必要ない。俺が魔人であることをリサーナは知らないはずがないのに、お前は俺が武器を捨てて安堵する。それが演技であるのなら、もはや素晴らしいと感嘆してしまいそうだ」
「あの、私の世界に魔人なんてものはいないんですが、この世界に人間はいますか? あなたは天使とか悪魔とかそういう類のものですか?」
「お前は人間だろう」
「私は一応そのつもりではあります。リサーナがどうなのかは知りません」
「獣人と人間がいる。天使や悪魔などというものは俺も見たことはない」
「獣人と人間? じゃあ魔人って」
「魔法を使える獣人を魔人と言う」
魔法。
いやまあ背中に羽が生えた人を見てしまっては、今更もう驚くところではないのかもしれないけど。
「絶対ここ別世界です。それだけは確信しました」
なんだか恐ろしいものを見るような顔をされた。
確かにこういう頭のおかしいことは自信満々に言えば言うだけより異常に見えるかもしれない。
「えっと、何歴の何年でしたっけ?」
「大陸歴一三五八年」
「私の世界は西暦二〇二一年でした」
気持ち悪いものを見る目で見られる。
即座に何歴何年と適当に作って答えられるならそれは確かにただの噓つきではなくもはや素晴らしい能力だろう。
ただし私は一般常識を言っているだけだ。
「この国は輝黒歴一年だ」
「一年?」
「獣人は長く虐げられ辺境に追いやられていた。その地を領土として、国として認められ、まだ半年だ」
「それはおめでとうございます」
「……人間が獣人の自由の権利を祝うのか」
「え、すみません。私この世界の価値観とか常識まったくわからないので。独立とか建国とかそういうおめでたいことなのかなと思って」
とりあえずおめでとうございますと言っただけだった。
「お前は黒髪黒眼だと言ったな」
「そうですね?」
突然目の前に水でできた鏡のようなものが現れ、目を見開く。
魔法って、ホントに魔法、いやおかしな言い方になっているが、魔法だ……
思わず単純に魔法に驚いてしまったが、それに映るものに、私は凝視する。
鏡には目を見開いて凝視する女が映っていた。
銀の髪に、紫の眼の……
「……誰?」
「リサーナ・フェル・フローレスと言っている。十九年間毎日見ている顔だろう」
「……私もう二十歳」
突っ込むところはそこではないような気もするが、それしか出てこなかった。
「人間は黒を不吉な色だと言って嫌う。だがお前は俺の黒髪に、いっさい反応しなかった。さっきまで怯え、嫌悪の目で見ていた女が、まるでそんな考え方は頭の中から消え去ったかのように」
「私も黒髪でしたし。というか私の国、ほとんど黒髪でしたし」
「お前の国は明るい茶と金がほとんどだろう」
「どこの国の話ですか」
「……フローレスの話だ。お前はフローレス王国第一王女、リサーナ・フェル・フローレスだろ」
王女……
お姫様!?
お姫様になったのにこんな嬉しくないことある!?
「私、日本という国の、一般人で」
「そんな国は知らない」
ですよねー。
私があなたを別世界の人だと思うなら、あなたも私の話は同じような感覚ですよねー。
「……でもあなた日本語を話しているんですが」
と言ったら怪訝な顔をされた。
いやもうずっと怪訝、困惑、気味悪い、そういう顔ばかりだけど。
「お前は大陸共通語を話しているが」
「私普通に日本語を話しているつもりなんですが」
「訛りも何もない綺麗な大陸共通語を話している」
「この体に染みついてる語学力とかで無意識にこの世界の言語話せて理解できてるとかそういう感じ? それとも不思議に自動的に翻訳されてるとか? もしくはたまたま日本語と一緒だった?」
「姫を差し出すのが嫌で、似た容姿の侍女でも替え玉にしたのか? しかしそれでも不自然な点は……」
「ここは獣人の国で、あなたはこの国の王、で間違いないですか?」
「ああ」
「獣人は今まで迫害されていた?」
「そうだ」
「でもやっと自由を得た。それは戦争で勝った、ということですか?」
「戦争をすれば勝てる状況が整った、ということだ」
「お姫様は人質みたいなものですか?」
そう言ったら顔をしかめられた。
「そちらから提案してきたんだろう。緑豊かで作物の豊富なフローレスが食料提供する代わりに、他国が攻めてきたときにうちが戦力を貸してやる。そういう約束だ。友好の証として第一王女を俺に嫁がせると。こちらが強要したわけではない」
つまりこの人からすればリサーナに、フローレスに裏切られたわけだ。
お互い利のある話で、友好の証となるはずだったのに、リサーナはこの人を殺そうとした。
「まるで悪の魔王みたいに、姫を差し出すのが嫌でという言い方をされたので、勘違いしました。そうじゃないなら、そういう言い方はするべきじゃないですよ。魔人の悪いイメージに、わざわざ染まってやる必要なんてないじゃないですか。」
「……お前が、この国に来ることになった不幸を嘆いたのだろう。魔人に嫁がされた不幸を呪って、俺を殺そうとした人間が、そんなことを言うのか」
「それは私じゃありません」
顔を掴まれて、頬の傷に指が食い込む。
痛みに顔をしかめるが、その人の方が、痛みに耐えるような顔をしていた。
「この口だ」
「この心ではありません」
「天女のようだとフローレスの民に賛美される、白銀の髪に菫色の瞳を持つその顔を、嫌悪と憎悪に歪めて、獣人を罵った」
「私は獣人に対して嫌悪も好意も持っていません。獣人のことを、まだ何も知らないから」
「誰が、人間の妻など望むものか。だがそれで互いの国に利があるなら、俺はお前を最大限尊重するつもりだった。王族として、国のために嫁ぐのなら、たとえそれが望まぬものでも、お前も同じ思いだと思っていた。俺を殺せばどうなるかわからなかったか。自分の国が滅びても構わないか。これが天女か、笑わせる。民の労働によって贅沢をして不自由なく暮らしておいて、王女は民が焼き払われようがどうでもいいと」
この部屋は、とても綺麗だ。
ベッドはふかふかで、視界に入る美しい調度品の数々、それだけしかわからないけど、尊重するつもりだったという言葉は、嘘ではないと思う。
何より、こんな頭のおかしなことを言いだす人間の話を聞いてくれる人だから。
それが、憎む人間で、自分を殺そうとしてきた人でも、耳を傾けてしまう人だから。
フローレスの民を憐れんでくれる人だから。
「あなたはとてもいい王様ですね」
「っ……」
「私はリサーナ・フェル・フローレスじゃありません。あなたを殺そうとした記憶もないし、今後もそんな気はありません。でもこの体は間違いなくあなたを殺そうとしたんですよね? 自分でも無罪を訴えるのは無茶だとわかってます。だから、せめて命だけでも救ってくださいませんか。牢に入れて、フローレスの姫を使いたいときにだけ使ってくれればいいです。それであなたの求める利は得られますよね?」
殺そうとしていない、それは私じゃないと言ったって、そうかわかったなんてなるわけがない。
でも、だからって、私もわかりました私が悪いのだから殺されますとはなれない。
いくら私はもう天羽理咲として車に轢かれてたぶん一度死んだ……と思われるとしても、今生きている以上、死にたくはない。
「人間すべてを相手に戦争を起こしても勝てる戦力を持っているんだ。一つの国を滅ぼすことなど容易い。フローレスから食料を奪い、尽きれば別の国を狙えばいい。お前はもう必要ない」
「それだと安定に供給されないんじゃないですか? それに食料が尽きる度戦争を起こすんですか? 辺境の地だと言っていましたが、力があるなら土地を少し奪ってそこで作物を育てるとかは駄目なんですか?」
「……お前が土地を奪うことを提案するのか」
「端から順番に戦争起こしていきますって案より絶対マシです。それにフローレスが豊かな土地なら絶対そこから安定に供給する方がいいですよ。そこ焼け野原にしたりするのもったいないです」
「お前が言うな」
ごもっとも……
「具体的に食糧問題ってどういうものなんですか? 私その情報どうにかできる立場じゃないので、教えていただけませんか」
私に話したって秘密漏洩の心配はない。
もしスパイとかいても私手引きとかできないし。
「辺境で育ちにくいというのもあるが、根本的に獣人は農業知識も技術も低い」
すごくあっさり話してくれた。
しかし手は、ずれて首に添えられた。どうせもう殺すしってことですか……
「辺境って、土地が痩せてるってことですか? それとも寒すぎるとか? あ、暑い方?」
「全部」
全部!?
どういう環境!?
「飢饉の解決策っていうとジャガイモのイメージ強いですけど、この世界にもジャガイモってあるんでしょうか」
「ジャガイモ?」
あ、なさそうな雰囲気。
「えっと、ポテト? 馬鈴薯? 男爵イモ。メークイン」
それ以上もう私には言い換えられない。
「イモは、ある」
「サツマイモとかもいいって聞きますけど」
眉間にしわが寄せられた。
あ、これはジャガイモとサツマイモがこの世界にないのではなくて、どのイモがそれかわからないという感じだな。
「やはり農業が盛んなフローレスの王女は詳しいのか」
だからあっさり話してくれたのか。
「この世界の農業は全然わからないですけど、日本の農業知識なら多少は。ジャガイモも見ればどれがそうかわかりますよ」
「…………」
「今あるイモ全部持ってきてくれたらどれって指差しますけど」
私はふと、あることを思いついてしまった。
「……では、持ってくる」
手が緩んだ。
私はベッドに倒れて、王様を見上げる。
「今日はもう寝ます。明日にしてください」
さっきとは違う意味で眉間にしわが寄った。
「お前は自分の立場がわかっているのか」
人間の手と変わらなかったその人の手に鱗のようなものが生えて手が火に包まれる。
「今私を殺してしまったらジャガイモわからなくなりますよ。それとも王女が死んだから次は農業に詳しい者を友好の証に送れと言いますか? 自分で言うのもなんですが、私獣人と普通に話せる数少ない人間だと思いますけど、殺します?」
「……本当に、知識を持っているのだろうな」
「明日あなたが求める知識を持っていないとわかればそのとき殺せばいいじゃないですか。私なんてあなたはすぐに殺せるんでしょう?」
余裕の笑みを浮かべて言ってみる。
心臓はバクバク言っているが。
火が消えた!
「ああ、その通りだな。お前が有用な人間ではないのなら、明日殺せばいいだけだ。お前が命惜しさに嘘を並べ立てていたのだとわかればすぐに殺す」
「どうぞ」
天女と言われるほどらしい顔で、精一杯綺麗に微笑んでみせる。
王様はベッドを下りると、ドアに向かい、足を止めると振り返る。
「部屋は好きに使え。一応、お前の部屋だ」
「ありがとうございます」
二度目の苦笑をこぼされた。
部屋を出ていき、バタンとドアが閉まると、私は体から力を抜く。
意味がわからない。
何が何やら、本当に、もう、全然、まったく、意味がわからない。
頭が痛い。
寝たらこの悪夢は覚めていないだろうか。
病院でベッドに横たわっていてもいいから、早く、夢なら覚めてほしい。
でももし自分の遺体を上から眺めていたらどうしよう。
想像してゾッとした。
頬が痛い。
現実であることを訴えてくる。
もしこの世界にジャガイモなんてなかったらどうしよう。
持ってこられたものが全部見覚えのないものだったらどうしよう。
ジャガイモがあったとして、その後は。
次は何を理由に命を伸ばせばいい。
毎日、少しずつ知識を渡して、それを……私は一生続けるのだろうか。